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renga: a chain of poems
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タリム周縁 その1 敦煌あたり
1 沙州・敦煌莫高窟

 楊、白楊、ポプラ、胡桃の高木が青空に向かってすらりと立っていた。
 9月のオアシス。春先には崖の上の鳴沙山から風に吹かれた砂が落ちてくるそうだが、秋日和、莫高窟は戴いた黄土も穏やかに空の青に映え、すっきりした姿だった。
 莫高窟の中にある諸文物についてはすでに写真が撮りつくされ、お話が語りつくされ、情報が書きつくされているので、ここでは屋上屋を重ねない。
 石窟の中には煮炊きの煙で壁が煤けて、人間が暮らした痕跡を残すところもあった。Irene Vongehr Vincent, The Sacred Oasis: Caves of the Thousand Buddhas Tun Huang, Chicago, University of Chicago Press, 1953によると、1920年代にはボルシェヴィーキ革命から逃れてきたロシア人の一団もここに仮住まいして、煮炊きの煤で壁画を汚し、無聊にたえかねキリル文字の落書きも残したそうである。
 著者のアイリーンさんは1940年代末に莫高窟を訪ねている。そのとき常書鴻・初代敦煌文物研究所長は出張で南京に出かけて留守だったため、彼の妻が丁重に迎えてくれたと書いている。
 ところで、その常氏の妻は莫高窟での1940年代の厳しく単調な生活に耐え切れず、やがて常書鴻さんと子どもを残して、莫高窟から逃げ出してしまう。「上べは繕っていたが、魂は腐り果てた女だった」と、常さんは著書『敦煌の芸術』(同朋舎出版、1980年)で妻を罵倒した。書鴻さんは莫高窟と抱き合い心中して悔いなかった。しかし、妻には妻の人生があり、それを一方的に責めるわけはいかないだろう。
 莫高窟はにぎやかになった。観光シーズンの最盛期には、1日4000人を超える入場者がやってくる。昨年の有料入場者は43万人に達した。外国人では日本人が最多だが、いまや入場者の過半数は余暇に目覚めた中国人だ。敦煌の市内には「旅游立市」という看板が立ち並んでいる。敦煌は観光に賭けている。市内から130キロも離れた「柳園」という最寄の鉄道駅を「敦煌」と改名してもらうほどの入れ込みようだ。
 中国の爆発的な経済成長は西部大開発のかけ声に乗って、タリム盆地周辺に届き始めている。むかしの沙州、いまの敦煌には、そのような雑然とした荒々しい活気がみなぎっている。
 敦煌に来る前夜、西安のホテルのお土産売り場で、赤い表紙の懐かしい『毛主席語録』を買った。売店には日本語版と英語版があったが、中国語版はなかった。毛語録が中国を席巻したのは人々が文化大革命に酔った1960年代中ごろのことだ。あれから40年。いまではお土産業者が北京・外交出版社刊行の原本をコピーし、外国人相手の観光土産として復刻版を売っている。毛沢東のお言葉も今の中国では観光土産のアイテムでしかない。時の流れは非情だ。
 「われわれの人民政府は、人民の利益を真に代表するする政府であり、人民に奉仕する政府であるが、この政府と人民大衆とのあいだにも一定の矛盾がある。この矛盾には、国家の利益、集団の利益、個人の利益の間の矛盾、指導するものと指導されるものとのあいだの矛盾、国家機関の一部の要員の官僚主義的な作風と大衆とのあいだの矛盾がふくまれる…」
 毛沢東がこの文章を書いた1957年の中国をおもえば、2005年の現在の中国はまったく別の国だ。しかし、毛沢東が指摘したさまざまな矛盾は消えるどころか、富の増加に比例してより鮮明になってきている。



飛天舞う気配のせ来て風や秋
(mandala, 2005.10.17)



2 月牙泉

 沙漠の砂山の中に忽然と現れる泉――奇跡といわれている鳴沙山のふもとの月牙泉は、水位が下がり、やがて枯れ果て、沙漠のなかに消えようとしている。
 ウルムチからやって来て、何年かぶりに月牙泉を見たウイグル人のガイドは「ずいぶん小さくなった」と驚いていた。
 それはそうだろう。
 月牙泉は1970年代から水位が下がり始めた。いまでは、泉はかつての3分の1までに縮んでいる。敦煌にとって月牙泉は莫高窟と並ぶ観光資源である。そこで、月牙泉の管理者たちは、まず、ポンプで月牙泉に水を補給する仕掛けをつくった。すると、月牙泉の水が濁ってしました。
 次に、月牙泉の近くに貯水池を掘って水をはった。貯水池の水が地下を通って月牙泉にしみ入ることを期待したのだ。こっちの方もたいして役立っていないようである。
 これも「さまよえる湖」のミニチュア版の自然の気まぐれなのか。
 いや、いちがいにそうともいえないらしい。
 1970年代から政府は敦煌周辺の農業開発を始めた。祁連山脈の氷河の水を集めて敦煌へ流れてくる党河を上流で堰き止めて党河ダムを作った。そこから灌漑用水路を張り巡らせた。1979年には異常気象で甘粛省一帯に大雨が降り、党河ダムが増水に耐え切れなくなったので、ダムを人為的に決壊させたことがある。このとき、敦煌の町の3分の1が破壊されたそうだ。
 ともあれ、敦煌に向かって流れていた党河の流量の9割がダムに取り込まれ、農業灌漑用水となった。そのおかげで、農地は増え、生産量は上昇し、農民の生活は向上した。同時に敦煌周辺の人口も激増した。NHKが初代「シルクロード」の取材で敦煌を訪れた4半世紀前、敦煌の人口は1万人ちょっとだった。それが農地拡大でオアシスの人口はやがて10万のオーダーに達した。現在では、人口18万である。
 敦煌の中心部から10キロほどの集落では地下水面がこの5年で1メートル下がったという。オアシス全体が枯れ始めているのだ。
 ダムを作ったころ政府は「水は無尽蔵だ。農地を広げよ」と号令をかけた。いまでは、/靴靴農地を開くことを禁止敦煌への移住禁止新しい井戸掘り禁止、の三禁政策で水資源の保存に躍起となっている。
 オアシスの水が養える、その限界を超える人口がオアシスに住みついた。人が水を枯らしているのである。



秋愁や身を細らせて月牙泉
望月もみるまに欠けて三日月にわが夜と仰ぐ哀れ空事

(mandala & 閑散人  2005.10.18)




3 玉門関・陽関
 
 漢文の授業に出てくるあまりにも有名な李白の子夜呉歌。

 長安一片の月
 万戸衣をうつの声
 秋風吹いて尽きず
 総て是れ玉関の情
 何れの日か胡虜を平らげ
 良人遠征を罷めん

 李白が「玉関」と書いたのが現在の玉門関だったらしい。敦煌の西100キロほどのゴビ灘にその玉門関の跡が残っている。李白が生きた盛唐の時代、玉門関はさいはての関所だった。その向こうは、漢族にとっては異民族征服のための遠征の地だった。現在の中国は沿海部の経済発展に見られるように、海側、つまり東に向かって開いている。長い歴史のある時期には、中国は沙の海に向かって、つまり西に向かって開いていたのである。

 李白の同時代人、王之渙の涼州(甘粛省)詞。

 黄河遠く上る白雲の間
 一片の孤城万仭の山
 羌笛何ぞ須いん楊柳を怨むを
 春光度らず玉門関

 玉門関の向こうでは、春の陽光さえ望めない、と王之渙は詠嘆するのである。
 有名な漢の武帝は寵妃の兄である李広利にフェルガーナ遠征を命じた。李広利は2年にわたるフェルガーナ遠征に失敗し、多くの兵を失い、敗残兵をつれてすごすと敦煌目指して引きあげた。そのとき、遠征失敗に激怒した武帝は、ぴしゃりと玉門関を閉じ、「あえて帰国しようとする者は斬罪に処せ」と命じたという。
 玉門関は非情の門であった。
 柳中庸は「征人怨」でうたう。

 歳歳金河復玉関
 朝朝馬策と刀環と
 三春白雪青塚に帰れば
 萬里黄河黒山をめぐる

 For years, to guard the Jade Pass and the River of Gold,
 With our hands on our horse-whips and our sword-hilts,
 We have watched the green graves change to snow
 And the Yellow Stream ring the Black Mountain forever.

 さて、玄奘三蔵は深夜玉門関近くの川をわたってインドへ向かったと『大慈恩寺三蔵法師伝』はいう。この玉門関は現在敦煌の西に残っている玉門関とは別の関所で、敦煌の東に位置する安西(昔の名は瓜州)の郊外辺りにあったらしい。
 Mildred Cable & Francesca French, Through Jade Gate and Central Asia, London, Constable, 1934は玉門関(Jade Gate)は嘉峪関のことだ、という説をとっている。また同書は、1930年代には、地元の中国人は安西の東にある玉門鎮こそ玉門関の跡につくられた町だと主張していた、と書いている。ホータンの玉はあちこちの関所を抜けて長安あたりに届いていただろうから、あちこちに玉門関があったわけだ。
 オーレル・スタインが1907年に敦煌の西の現在の玉門関跡で、「玉門関」と書かれた木の切れ端を見つけて以来、ここが玉門関跡ということになっている。
 玉門関のそのまた南には同じ漢の時代の関所・陽関がある。いまも烽火台が残っている。陽関もまた、王維の次の送別のフレーズで有名な場所である。

 君に勧む更に尽せよ一杯の酒を
 西のかた陽関を出づれば故人なからん

 Wait till we empty one more cup
 West of Yang Gate there'll be no old friends.

 玉門関も陽関も2000年の時間と風蝕に耐え、無残に削られつつもなお形を今にとどめている。ただし、いまでは2カ所ともフェンスで周囲を囲まれている。風蝕よりも、観光客がもたらす劣化の方が恐いようである。



ah, sandstorm
listen to the Jade Gate
telling a story of 2000 years

(flores 2005.10.21)


4 吉川くんの落書
 
 石窟寺院はインドのアジャンター、ウダヤギリ、エレファンタ、エローラ、カンダギリ、スリランカ(セイロン)のダンブラ、アフガニスタンのバーミヤン、タリム盆地のキジル、ベゼクリク、さらに東に進んで敦煌、雲岡と広がっている。これらは、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院だが、トルコのカッパドキアはキリスト教のものである。
 敦煌周辺にも莫高窟以外に、安西の楡林窟などいくつかの石窟寺院が残っている。同じ安西の東千仏洞は最近になって一般公開された寺院である。石窟の中には西夏時代の壁画が多く残されている。しかし、敦煌から車で往復300キロ近い距離になり、訪問は1日仕事になるので、まだ、訪れる観光客は多くない。莫高窟にくらべると東千仏洞は保存や修復がゆきとどかず、公園化もされていない。したがって商業化のにおいがうすい。そういう遺跡が好きな方には、お勧めの場所である。
 この安西東千仏洞の第2窟の入り口の壁に、大谷探検隊の吉川小一郎の「明治四十四年九月二十七日 大日本京都 吉川小一郎」という落書きが残っている。



石窟の剥がれ褪せたる千仏が末世となげく信徒の落書
(閑散人)

 ところで、吉川小一郎の明治44年の日記を見ると、敦煌滞在中の12月23日の記述に「千仏洞の道士同士がやってきた……所蔵の唐経を売却しようとしてわたしところへ来たのである。しかし持ってきた品の質はあまり良くない。もっと良いものをもって来いといってもなかなかうんといわない」とある。
 現代の敦煌。町の中心にある沙州市場の大通りが、夜になると夜市でにぎわう。新鮮な果物、干した果物、玉と称する石を売る屋台、ジャンクお土産屋、それに屋台レストランが現れる。
 その夜市で、毛沢東と林彪が笑顔で並んでいる写真を使った壷を買った。林彪は手に赤い毛語録を持っている。1968年製と書いてある。が、真性骨董品ではなく、観光用の面白土産につくったコピーだった。つぼは古びたように汚してあるが、表面の文字があまりに新しすぎた。
 大通りに店を構えた骨董屋に入ると、同じ壷を4000円ほどで売っていた。こちらのほうは、壷の肌が衰えているのと同程度に文字のほうにも退色があった。
 ま、私は骨董マニアの歴史学者ではなく、なまぐさい政治学者の端くれだから、いまどき毛林の壷のコピーをお土産に作っているという現実のほうにひかれ、真性骨董品でなくコピーの方を買った。



二人して夢見た春の形見かな
(mandala 2005.10.22)


5 ツァイダム盆地

 そのむかし長安を出発して絹の道へ向かう旅人は、武威−張掖−酒泉−嘉峪関−安西−敦煌とたどり、玉門関あるいは陽関から沙漠に向かった。楼蘭遺跡のあるロプノール一帯は5世紀ごろまでには干上がってしまい、楼蘭を抜けてタクラマカン砂漠の南の縁をつなぐ西域南道に通じるルートの利用が難しくなったそうだ。唐代までには北へ向かって、天山山脈南麓のオアシス沿いの天山南路をめざすルートが表街道になった。ただし、玄奘三蔵はインドからの帰路、西域南道をたどった。
 いま、酒泉付近のバタンチリン砂漠には酒泉衛星発射センターがつくられている。このほど神州6号を打ち上げた。
 ロプノールは核実験場として使われた。1964年から1994年にかけて45回の核実験が行われたという。
 このシリーズの結論を先取りしていえば、ラクダが鈴を鳴らすのどかな西域なんぞ、もう、どこにも残っていない。
 さて、玉門関や陽関をぬけて楼蘭から米蘭へと向かうには、いまでは面倒な手続きと多額の費用と準備が必要になる。お手軽第一の一般観光客が現在、敦煌から西域南道に向かうルートは次の通り。
 敦煌から国道215号を南下して崑崙山脈の支脈であるアルトゥン山脈を越えて、甘粛省から青海省に入る。そこから右に折れて省道に入る。ツァイダム盆地の北辺を走り、冷湖鎮で国道315号に入り(北京・星球地図出版社の2001年版新疆ウィグル自治区地図ではそうなっていた。しかし、新疆第二測絵院編の2004年版新疆ウィグル自治区地図冊では、冷湖鎮ではなく、さらに東の黄瓜梁で国道315号に入ることになっている)、石油基地の町・花土溝をぬけて新疆ウィグル自治区に入り、再びアルトゥン山脈を今度は東から西へ向かって越える。この国道315号は崑崙山脈北麓のオアシス伝いに新疆の西端の町カシュガルまで続いている。現代の西域南道である。
 ツァイダム盆地北辺のドライブは、「広大にしてかつ単調なる風景」の一語につきた。世界最長の直線道路といわれる84キロの部分を、灰色の風景の彼方へと突っ走った。あまりの単調さに運転手は眠気に襲われ、ときに車がスーっと道路左端に流れることがあった。空も低かった。



果てしない地のおもて音すべて絶え (mandala)

 ツァイダム盆地北辺のドライブルートは北緯38-39度、東経90-94度あたりを通る。このルートのちょっと南側の同じツァイダム盆地内の北緯37度50分、東経95度18分の地点には、中国が持つ核ミサイル発射基地のひとつがある。
 アメリカの軍事情報関係機関が公にしているデータによると、中国は250発の戦略核兵器を所有しており、このうち20発が大陸間弾ミサイル搭載用で、100発は射程距離1,800-4,750キロのミサイル・爆撃機用である。
 ツァイダム盆地のミサイル基地にある核搭載ミサイルは射程4,850-5,500キロ、搭載可能重量2.2トンのDF-4である。このミサイルに3.3メガトンの核弾頭を積む。発射命令から実際の発射までにかかる時間は1-2時間とされている。この基地のミサイルのターゲットはインドと旧ソ連の中央アジア地域だといわれてきた。
 ツァイダム盆地北辺のドライブでは、ときおりヤルダンなどが見え、風景にアクセントを添える。だが、風景全体は墨絵の上に淡いパステルで彩色した絵のようにみえた。
 ちなみに、ヤルダンとは強い風が巻き上げる砂によって削られて出来あがった地形のことだ。スウェン・ヘディンが1903年にトルキスタンを探検したとき、土地の人が下の写真のような地形をウィグル語でデコボコを意味するyardangと呼んでいるのを聞き、その言葉を西洋世界に紹介した。



ヤルダンを魔鬼城とよぶ人のあり
冥府魔道はかくもあるらし

(閑散人 2005.10.22)



6 アスベスト

 敦煌を朝たってツァイダム盆地の北縁を西に走ると、花土溝あたりで日が暮れ、一泊することになる。泊まる宿は石油招待所。花土溝は油田が発見され、原油生産のために荒野の中に急造された石油基地である。町には何本かの道路があって、アパートらしい中層のコンクリートの建物が多くある。が、その多くは窓ガラスが破れていたりしていて、どうも人が生活しているあたたかな気配がない。
 石油招待所のロビーにはソファーもなければ椅子もなかった。たずねてみると、外部から労働者がやってきて、勝手に休憩用のたまり場に使うようになったので、ソファーも椅子も撤去したのだという。殺伐とした石油の町だった。
 ツァイダム盆地全体では21億トンの石油と2兆5,000億立方メートルの天然ガスが埋蔵されているという。ロシア、サウジアラビア、米国のあとを追って、中国は世界第6位の原油生産国だ。ツァイダム盆地もこうした中国の重要なエネルギー供給地になっており、「聚宝盆地」(金が集まる盆地)と注目されている。いま進められている西部大開発の重要地点のひとつになっている。
 花土溝を出て、アルトゥン山脈を越えるまでに、遠く白い雪山のようなものが見えた。近づくとそれは石棉坑、つまりアスベスト鉱山だとわかった。車は白い鉱山の間を抜け、道路の白い粉塵を巻き上げながら走った。道の両側に従業員宿舎らしい建物が点々とあり、これも白く埃をかぶっていた。道路ぎわでは子どもが遊んでいた。
 日本はアスベスト対策で大きく出遅れてしまった。中国はアスベストの危険性に対して日本以上に認識が遅れている。
 中国はカナダ、ロシアについで世界第3位のアスベスト埋蔵量を持つ国だ。そのアスベスト鉱山は、甘粛省、青海省、新疆ウィグル自治区に集中している。これら3つの地域は中国の中で経済開発が遅れている地域だ。アスベスト鉱山の労働者12万人、製品加工の労働者は100万人。「アスベストを禁止したら、経済的に干上がってしまう」「むやみにアスベストを禁止して困るのは中国自身」といった論調が、中国のマスコミに載っている。旅行後、日本で読んだインターネット・サイト『中国情報局』はそう伝えていた。
 石棉坑はタリム周縁で見たさまざまな風景の中でも、もっとも寒々とした、心の冷える思いをさせる景色の1つだった。



in asbestos white
they shorten the life
in order to sustain life

(flores 2005.10.22)



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