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逆めぐり 「奥の細道」 第1章 仙台―深川
1 深川の山師・芭蕉

芭蕉を「彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と評したのは芥川龍之介である。もっとも芥川はこの寸評の前に「禅坊主は度たび褒める代わりに貶す言葉を使ふものである」と添えているから、芥川は芭蕉を「山師」と褒め称えているのだ。

「続芭蕉雑記」で芥川は芭蕉を以下のような男としてとらえている。芭蕉は「不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入りしながら、いつか近代的(当代の)大詩人になった」。芥川に言わせると、芭蕉はその作品は別にして、彼の一生は特別神秘的でもなんでもなく、西鶴の「置き土産」にある蕩児の一生と大差ない。



内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』は、芭蕉の伊賀出奔の理由は19歳のとき主君の夫人の侍女と通じたという冤罪を負って憤慨した⊆膩没後、その夫人と醜聞があったと悪意のうわさを広められ激昂した7参任髪霾垢あった、などの風説があるが、いずれも信じがたいとしている。Bashoistである内田は、芭蕉のこととなるとうって変わってまじめな口調で、芥川の不義出奔説を否定する。

また内田は、遊蕩について、芭蕉は遊びぬいた人であるとの説もあるが、確固たる根拠がない、という。支考が『露川責』で「むかし西行宗祇など兼好も長明も今日の芭蕉も酒色の間に身を観じて風雅の道心とはなり給へり」と書いていることについて、支考は我田引水の説を捏造するものであるから信じがたい、もし芭蕉に遊蕩の時代があったとすれば、江戸に来る以前の寛文時代で、江戸に来て以後はそのようなことはありえない、と否定している。



芭蕉稲荷

狩衣を砧の主にうちくれて     路通
 わが稚名を君はおぼゆや     芭蕉

 宮に召されてうき名なづかし   曾良
手枕に細きかひなを差しいれて   芭蕉

 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭
よつ折の蒲団に君が丸くねて    芭蕉

芥川は「芭蕉雑記」で上記の句をあげて、芭蕉を次のように定義する。芭蕉は時代を捉え、最も大胆に時代を描いた万葉以後の詩人である。芭蕉は茶漬けを愛したなどというのも嘘ではないかと思われるほど、元禄人が好んだ多情と世俗の甘露を語りつくしている。

同時に、芥川が言うように、芭蕉は世故人情に通じた世渡り上手な苦労人だった。芭蕉の今日あるはその弟子があくことなく芭蕉を語ったからである。芭蕉が唱えたとされる「わび・さび・しおり・ほそみ」などは芭蕉に代わって弟子たちが「翁いわく」と世間に広めた。



芥川の「芭蕉雑記」や「続芭蕉雑記」を読むだけでは、芭蕉がなぜ「三百年前の大山師」だったのかよくわからない。芭蕉は元禄の時代精神をうたいつくした詩人であり、世渡り上手な俳諧団体オーガナイザーだった。しかし、芭蕉が日本の国民的詩人の一人と評価されるのは、それだけの理由にすぎないのか?

(閑散人 2006.7.1)




2 旅立ちの千住・草加

千住は奥州街道第1の宿駅であった。芭蕉が深川から船に乗り隅田川をおよそ10キロさかのぼって千住に降り立ったのは、『奥の細道』本文によれば「弥生も末の七日」(旧暦3月27日、新暦5月16日)、奥の細道業務日誌である『曾良旅日記』によれば、旧暦3月20日(新暦5月9日)のことだった。



芭蕉・曾良の2人組は千住から草加・春日部へと歩き始めた。奥の細道行脚の始まりである。2人が旅した元禄時代にまでには、日本国内の道路網の整備はかなり進んでいた。ダートロードで雨が降ればすぐぬかるんだが、幹線道路には旅行に必要なさまざまな施設が整備され始めていた。



蕪村筆「奥の細道画巻」千住 (逸翁美術館本)

藤岡作太郎によると、西行、宗祇、芭蕉が日本における三大旅行詩人だというが、芭蕉は西行、宗祇と比べて旅人としての姿勢が自然でない、と山本健吉は言う(『山本健吉全集 第8巻』)。西行は実に自然に旅人になり、宗祇は戦乱の時代の漂泊の詩人だが、芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になった、という。元禄という定住安住の太平の時代に旅人になった。あのような太平の世の中にあって、なんら家の勤めも果たさないで、ふらふら浮かれ歩いているのは、常識を持った人の学ぶべきことではないという上田秋成のコメントも、山本は引用している。

結論から言えば、芭蕉は17世紀の旅行家としては特筆に価しない。行動半径からいえば芭蕉の同時代人である仏師円空が芭蕉をはるかに凌駕している。時代の記録者としては荻生徂徠が芭蕉を抜く。荻生徂徠は旅の作品に時代と人々の暮らしを活写して後世に残した。芭蕉が訪れた先は歌枕に過ぎなかった。『奥の細道』からは生きた人間の呼吸が伝わってこない。

しかし、加藤周一は『日本文学史序説』で芭蕉の功績を次のように要約している。芭蕉は武士社会から脱落し、町人社会にも身を寄せず、仏教に関心を寄せたが仏教による現世超越にも向かわず、日本の土着世界観を徹底させた美的世界である「風雅」の価値信仰に生きた。加藤周一は芭蕉のそうした世界を「日常的彼岸の現在」とよんだ。文化の世俗化の徹底である。

芭蕉にとって旅はその風雅の感覚を研ぎ澄ますための手段であった。とはいえ、芭蕉の旅には弟子が同行し、パトロンがおつきの者を提供した。旅先では俳諧のパトロンが丁重に芭蕉を迎え、面倒を見た。『奥の細道』には旅のつらさを書き連ねているが、このころの一般人の旅に比べれば優雅なものだった。



草加にある芭蕉シンポジウム記念ドナルド・キーン植樹の碑

ともあれ、こうした旅で芭蕉は発句に自然を詠みこんだ。加藤周一に言わせると、日本の抒情詩人は『古今集』以後は見たこともない歌枕を詠んだが、芭蕉は現地体験を持った。芭蕉の句の中には画期的な自然の発見がある。「一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を歌ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むと自ら信じるようになったのである」と加藤は力んで見せる。だが、これはちょっと勇み足だろう。

オスカー・ワイルドは「自然もまた芸術を模倣する」と喝破したが、芭蕉もまた、「このように自然を見よ」と日本人に教え、やがて日本人が日本の自然をそのように見るようになったのであろう。日本は春雨、五月雨、夕立、秋雨、時雨とやたら雨が多く湿っぽく、夏は耐えらないほど暑苦しい国でもある。にもかかわらず、日本のことを四季折々に美しい自然が楽しめる国と日本人は思っているようだ。これはどうやら芭蕉の贈り物のおかげらしい。

内田魯庵は芭蕉の「俳骨」は国典にあらず儒学にあらず、禅の修業であった、という。加藤は芭蕉は仏教に関心を寄せただけという。内田は芭蕉の学識について、芭蕉よりもっと優れた学識のある俳諧人はいたともいう。

もし芭蕉がその人生の後半で旅に出ることがなかったら、単なる元禄の詩人にとどまっていただろう。旅は芭蕉にとって「投機」の時、「投機」の場であった。山本健吉の言うように、「芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になり」、『奥の細道』で一発あてた「大山師」だったのだ。

(閑散人 2006.7.1)




3 室の八島は荒れにしを

カリフォルニア大学バークレー校の先生の日本見学に付き合ってあげたとき、その先生が感慨を込めて次の一言をのたもうた。

「日本のものはみんな小さい」

たしかに。そういえば、末の松山の隣にあった「沖の石」も言語イメージのインフレ効果によって名所になっていた。



沖の石

李御寧さんに指摘されるまでもなく、日本文化は縮みをもって尊しとする傾向がある。「室の八島」には、多島海のイメージを与えるが、出かけてみると大神神社の室の八島は小さな水溜りでしかなかった。しかも、そうとう荒れていた。



室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。

曽良の俳諧書留には室の八島で制作した芭蕉の以下の5句が」メモされていた。しかし『奥の細道』室の八島の段に載ることはなかった。

 
室八島
糸遊に結つきたる煙哉     翁  
あなたふと木の下暗も日の光  翁
入かゝる日も糸遊の名残哉
      (程々に春の暮れ)
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえす春の暮

室の八島は芭蕉が奥の細道の旅で最初に訪れた歌枕である。にもかかわらず、この書き方があまりにもそっけないので、芭蕉は室の八島に失望したのだろう。それが奥の細道研究者の一般的見解になっている。貝原益軒は『日光名勝記』(1714年刊)に、室の八島の水は枯れ、いわれるように水気が煙のように立つことはなかったと書いている。芭蕉が訪れた1689年も水が枯れていて、歌枕の往時の姿はどこにもなかったのであろう、と研究者たちは想像している。

この項の筆者が訪れた2006年6月初旬、室の八島の池には濁ってはいるが水があり、鯉も泳いでいた。そして、なんと大神神社は煙に包まれていた。



年ふりて室の八島は荒れにしを往時しのばせ煙る大神
                     (閑散人 2006.6.30)
次回は草加


4 日光のオマージュ

芭蕉は老荘の書になじんだという。芭蕉は老子・荘子の孤独な隠者風のプロフィールにあこがれ、それをなぞろうとしたようだ。しかし、政治哲学者としての老子のニヒリズムや、荘子の宗教哲学者としての天衣無縫には縁が薄かった。

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
  あらたうと青葉若葉の日の光

上記のような『奥の細道』の記述は徳川政権に対する芭蕉の手放しのお追従なのだろうか? このことに関わる議論が阿部喜三男『詳考奥の細道』(山田書院、1959年)に比較的詳しく紹介されている。



「あらたうと青葉若葉の日の光」は実景の句というよりは挨拶の句であり、家康の慰霊を讃えたものである(志田延義『奥の細道評釈』武蔵野書院、1956年)。これに対して、「旅行のさいはその地の地霊に挨拶をしてゆくのは芭蕉の詩の発想としてきわめて自然であり、卑屈さはない」と山本健吉は、徳川将軍家ではなく、日光の地霊を讃えたのだと、芭蕉を弁護している(山本健吉『芭蕉』新潮社、1955年)。

井本はこれを芭蕉の個人的な資質ではなく、時代のせいにしている。「芭蕉が徳川家の政治に対して矛盾を感じていなかったらしく思われて、失望させられる。しかし、元禄という時代はそういう批判を十分に成長させえない時代だったのだろう。もちろん、一方では、芭蕉の限界をそこに見ることができるわけである」(井本農一『奥の細道新解』明治書院、1951年、増補版は1955年)。

このような議論をまとめて、著者の阿部は「政治的社会観といったようなものには、おそらく芭蕉はこの当時ほとんど関心がなく、徳川の施政のままを穏やかにうけているといった程度だったのであろう」と結論している。

一方、2003年に出版された堀切実編『「奥の細道」解釈辞典』(東京堂出版)は「芭蕉の日光賛美は、そのまま東照宮賛美に重なる。太平に治まった世の中が徳川家によってもたらされたことに対する芭蕉の感謝の念が率直に表れた章段」と短く触れているだけである。



文芸の研究書とはいえ、第1次安保闘争の前年に出版された本と、ネオリベラリズムの風が吹き荒れる2003年の本では、時代の風潮によって著者・編者の関心のありどころが見事にちがっていて、なんとも面白い。

ご威光を芭蕉青葉にきらめかす木の下陰の民にあまねく
                      (閑散人 2006.6.30)
次回は室の八島





5 優しくたたずむ雲巌寺

雲巌寺は寺全体がすっぽりと緑につつまれていた。美しい寺である。臨済宗妙心寺派の禅寺。筑前・聖徳寺、越前・永平寺、紀州・興福寺とともに禅宗の四大道場の一つとされた。だが、そんないかめしさをいっさい感じさせない優しいたたずまいの寺である。



青葉の中を朱塗りの橋を渡って石段を登り境内に出ると、その一角に紫陽花の植え込みがあった。筆者が訪れたのは石楠花がまだ残っているころで、紫陽花の開花までまだ間があった。紫陽花の茂みにかこまれるようにして、芭蕉の雲巌寺訪問を説明した案内板があった。



『奥の細道』は次のように物語っている。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
  木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。

「木啄も庵はやぶらず夏木立」だが、木啄(啄木鳥、きつつき)は、俳諧の季語分類上、秋におさめられる。芭蕉は平然と啄木鳥を夏木立に添えた。いかなる禅機によるものだろうか?

佛頂和尚は深川時代の芭蕉が参禅のためしばしば訪れた禅師だ。芭蕉は雲巌寺訪問の目的を佛頂和尚が修行時代に雲巌寺裏山にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌をかたわらの岩に書いたと語ったことがあったからだ、と書いている。

佛頂和尚は住職をしている鹿島根本寺の寺領が鹿島神宮に取り上げられていることを不服として江戸に来て寺社奉行に訴えた。この訴訟のため、和尚は深川に臨川庵(後に臨川寺)を結び、仮住まいしていた。

芭蕉が佛頂からどのような禅を学んだのか、詳しいことは知らない。佛頂和尚の「梅子熟せりや」の問いにたいして、芭蕉が「桃の青きが如し」と応じ、そのときから桃青の俳号を使うようになったという俗説がある。この禅問答めいた俳号の由来話には矛盾がある。芭蕉が深川に住み始めたのが1680年の冬。佛頂和尚との付き合いはその後に始まった。しかし、芭蕉はその5年前の1975年から桃青の俳号を使い始めている。俳諧にとって禅などはこの程度のフリルに過ぎないのであろう。

芭蕉は佛頂が語ったという「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶやしもく雨なかりせば」をたよりに雲巌寺にきたそうだから、雲水の「一所不在」へのこだわりを、修行よりも、スタイルの美学の視点から有難がったのだろうと思われる。

道元は、仏法は仏法そのものとして修学されるべきで、文芸などは真実の修行者には用のないものである、といった。しかし、大方の日本人は、仏像の荘厳な美しさや、仏教の法会に関連する音楽・舞踊・文芸などの総合的な芸術美が仏教そののもであった(中村元『日本人の思惟方法』中村元選集第3巻、春秋社)。

中村元は「色は匂えへど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」(もろもろの作られたものは無常であって、生滅を本質とするものである。それらは生じては滅びる。それらの静まることが安楽である)というインド人の抽象的思考を「色、匂う、奥山、越える、夢、酔う」などの直感的・具象的な観念を用いて、情緒的な表現を前面に出し、抽象的理論を背後に隠し、日本的に翻案したものであるという。

「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」に芭蕉が感動した背景には、こうした日本流の情緒的美学の伝統があった。そうした情緒の上に俳諧が乗っているのだ。



D. J. エンライトという日本で教壇に立ったこともある英国の詩人が「俳句には概して社会性がなく、作者には個性がなく、批判精神がない。だから俳句は大嫌いだ」と本(D. J. Enright, The World of Dew:Aspects of Living Japan, London,1955)に書いたという話を上田真が紹介していた(上田真『蛙飛びこむ―世界文学の中の俳句』)。

べらぼうめ草の庵の悔しくば結跏趺坐せよ五月雨の下                    
                      (閑散人 2006.6.29)
次回は日光



6 遊行柳の緑したたる

芭蕉は殺生石をみたが、感銘を受けたような様子はない。殺生石は温泉の出る山陰にあって、石の毒気はいまだに猛烈で、蜂や蝶が折り重なって死んでいて、砂が見えないほどだ、と大げさで粗雑な描写をしている。



それから芭蕉は那須町芦野の遊行柳を尋ねた。ここは西行が、

  道のべにしみず流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ

と詠んだところだ。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ
田一枚植て立去る柳かな




芭蕉のあと、蕪村もここを訪れ、

  柳散清水涸石処々

と添えた。



筆者が訪れた6月初旬の風景としては芭蕉の句がぴったりだった。奥の細道の中で、久方ぶりで「作り物でない」芭蕉の写生句にであったような気になったのだが、本を開くと、実はそうでもないのである。このあたりが芭蕉という人のくえないところなのであるが。

専門家たちの論文を読むと、「誰が苗を植え」「誰が立ち去った」のかで意見がばらばらに割れている。
柳の精が田を植えて立ち去った。
農夫が田を植えて立ち去った。
農夫が田を植えるのを見終わって、芭蕉が立ち去った。
実際には農夫が田を植えたのだが、それを見ていた芭蕉は自分が田植えをすませたような気になって立ち去った。



さらに、深刻な異論もある。『奥の細道』の異本の中には
  
  田一枚植えで立去る柳かな

と読めるものがあるという。「植えて」が「植えで」となると、議論は始めからやり直さなければならなくなる。いまのところこの説は「写本の汚れを濁点と読み違えている」ということで否定されている。しかし、昔の人はめったに濁点を添えなかった。したがって、濁点がなくても「植えで」と読んで差し支えない。

遊行柳を訪れたとき、周辺の田んぼで農夫が田植えに精出していた。それを見るだけの芭蕉は、労働もせず生産活動になんら貢献していない自分の生き方に引け目を感じつつ、

  田一枚植えで立去る柳かな

と詠んだ、というのも悪くない説だ。奥の細道の伝統的読み方からは外れるけれど。

あの鐘の音を聞け
鐘は一つだが
音はどうとでも聞かれる

       ダ・ヴィンチ
                    (2006.6.27)
次回は雲巌寺



7 一線画す白河の関

白河関、勿来関、念珠関を奥州三関とよぶ。大和朝廷の北への拡張のために設置された。しかし、関としての実質的な軍事機能は平安後期以降には失われた。関東と奥羽を分ける歌枕として文芸の世界で存在し続けた。



心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便も富むしも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

『奥の細道』白河の段で芭蕉は、上記のような深い感慨を書き記した。しかし、例によって、肝心の発句を添えていない。代わりに曾良の句を挿入した。松島でもそうだった。この著名な歌枕を題材にして過去読まれた名歌の数々に臆したのだろうか?



たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因)
見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関(季通)
東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関(印性)
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(源頼政)
消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(家隆)
 
 白河の関跡は芭蕉が訪れたころには、正確な場所がはっきりしなくなっていた。19世紀のはじめ白河藩主松平定信が推定した白河市旗宿の小さな丘が、1950年代末から始まった発掘調査で白川の関跡であると確認され、史跡に指定された。



「白河以北一山百文」と東北の地をあざけったのは、明治維新で成り上がった薩長の人々である。東北人の誇りから盛岡出身の原敬は「一山」あるいは「逸山」と号して薩長の増長慢に抗った。また仙台の新聞『河北新報』も「白河以北…」という偏見に題字をもって抗議し、東北人の意地を見せている。

思えば筆者・閑散人が新聞記者の仕事をはじめた1960年代前半の岩手県で、当時の若い記者たちは岩手の北上山中の村の記事を書くときは「日本のチベットといわれる岩手県・北上山中の…」という枕詞を多用した。チベットにも北上山中の村の人々にも申し訳ないことをした。慙愧の念にたえない。よって狂歌はつつしむ。
                            (閑散人 2006.6.27)



8 往時の風流残す須賀川

須賀川は俳句の町である。芭蕉に宿を提供した等躬(『奥の細道』では「等窮」と表記)の屋敷があった須賀川市役所あたりの通りをふらふら歩いていて気がついた。あちこちの民家の門灯に文字が書き込まれており、よく見るとそれが俳句なのである。



須賀川は人口約8万の市だが、市役所敷地内に芭蕉記念館がある。東京・江東区の芭蕉記念館、大垣市の奥の細道結びの地記念館に引けをとらない日本家屋風の立派な施設である。



須賀川市内の20ヵ所余りに俳句ポストが置かれている。投句を審査のうえ、年間最優秀句を芭蕉記念館で展示する。町内会の掲示板にも俳句大会の予定が書き込まれていた。市役所向かいの民家の板塀には市内の芭蕉観光案内の大きなイラストが飾られている。



町全体が芭蕉に入れ込んでいるような気配が伝わってくる。

芭蕉は

  すか川の等窮といふものを尋て、四、五日どどめらる

と描いているが、実際には等躬の屋敷に7泊して、街中や周辺を観光して歩いている。芭蕉と曾良は須賀川で等躬と

  風流の初やおくの田植えうた

を発句とする歌仙を巻いた。

芭蕉はまた等躬の屋敷の近く(等躬の屋敷内という説もある)に住む隠者・可伸を訪ねた。芭蕉は可伸の暮らしぶりに感銘を受けた。芭蕉は可伸の隠者めいた暮らしぶりに、西行や行基のイメージを重ねたのだと解釈されている。



蕪村筆「奥の細道画巻」須賀川 (逸翁美術館本)

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗

このあと可伸の栗の木は名所になった。等躬が編んだ俳諧選集『伊達衣』には、可伸の迷惑そうな述懐が残されている。

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
  梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗斎 可伸

軒の栗は可伸庵跡に残っている。栗の木そのものはもちろん芭蕉の時代のものではない。



田植えうた風にのり来る風流を栗の木陰で駄弁る遊民
                       (閑散人 2006.6.27)
次回は白河の関




9 苔衣にてしのぶ石

福島市山口の文知摺観音に保存されている苔むした石が「しのぶもぢずり石」だといわれている。



古今集の「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに」(源融)に代表される歌枕である。陸奥国信夫郡。ときに「志乃不」とも表記された。「しのぶもぢずり」は面白い文様のある石の表面に染料となる草木をこすりつけ、その上に布をおき、文様を写し取った染物であるといわれている。信夫郡の名産とされた。

福島では隣接するかつての信夫郡・伊達郡をあわせて「信達」(しんだつ)地方と呼びならわしてきた。信達地方は養蚕の盛んなところであった。幕末の1866年には主要輸出品となった生糸の製造と販売に幕府が介入して利益を上げようとしたことで農民が蜂起する「信達騒動」がおきた。

おそらく石の表面の文様を写し取った草木染の布・しのぶもぢずりは絹製品だったのだろう。

芭蕉はしのぶの里を

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

と書きのこした。しかし、「早苗とる」のが早乙女だとすると、地の文荒々しさと発句のたおやかさに乖離がありすぎる。迷惑千万と、もぢずり石を突き落とした農民の節くれだった手のイメージのあとに「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」とくるのは、ちょっと異質だ。

芭蕉がここを訪れて後、1749年にはこのあたりを統括する桑折代官が、凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したことから、農民が蜂起して代官所へ押し寄せた。この一揆の後始末で多数の農民が処刑された。

そうした過酷な東北の農民の生活をしのばせるような地の文になっている。したがって、「早苗とる」の原型といわれる「早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺」の方がかえって面白い。この場合、「早苗つかむ」のは、男の農民である。

芭蕉は別のところで(『芭蕉庵小文庫』)で、

忍ぶ郡しのぶの里とかや、文字ずりの名残とて方二間ばかりなる石あり。此石はむかし女のおもひ石になりて、其面に文字ありとかや。山藍摺みだるるゆへに恋によせておほくよめり。いま谷合に埋れて、石の面は下ざまになりたれば、させる風情もみえずはべれども、さすがにむかしおぼえてなつかしければ、
  早苗とる手もとや昔忍ずり

と別の書き方をしている。こちらの方が早苗とる早乙女の手とのつながりが自然である。


子規句碑

文知摺観音には芭蕉の銅像や句碑、子規の「涼しさの昔をかたれしのぶずり」の句碑、奇怪な「甲剛」の石碑などがある。


「甲剛」碑

文知摺観音見学の掘り出し物は、文知摺観音の資料館で販売していた小冊子『信達三十六歌仙』。1847年にこのあたりの人が文知摺観音に奉納したとされる36人の狂歌。その冒頭は

 うちみだれ蛙なくなりもちずりのしのぶのさとの夜はのはる雨
                        愚鈍庵一徳

一徳はこのあたりを統括した桑折代官所の役人だったという。のんびりした狂歌を奉納して約20年後に農民蜂起があったわけだ。

 御政道乱れそめにし文知摺の
       しのぶのさとの夜半の血の雨

                (閑散人)



芭蕉はこのあと、飯坂温泉に向かった。

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。

蕪村も東北旅行のさい、この佐藤元治の子、次信、忠信兄弟のそれぞれの妻が戦死した夫の甲冑を着て義父あるいは義母を慰めたという伝説の甲冑像を見ていて、それをもとに「奥の細道画巻」の一画面を描いた。


(逸翁美術館本)
                       (2006.6.25)
次回は須賀川   




10 仙台は芭蕉の辻で

JR仙台駅構内の観光案内所で「芭蕉の辻」へ行く道を尋ねた。「駅から歩いてゆける距離です。しかし、松尾芭蕉とは何の関係もありませんよ」という返事をもらって、ちょっと驚いた。金沢には「芭蕉の辻」があった。芭蕉が宿泊した宿屋のあった場所だとされていた。仙台の芭蕉の辻もきっとそのような『奥の細道』ゆかりの場所だとばかり思っていたからだ。



その場所はJR仙台駅から「クリスロード」「マーブルロードおおまち」といった中央商店街のアーケードを西に歩き、日本銀行仙台支店の前を通り過ぎてすぐの四辻だった。

「芭蕉の辻」という石碑があった。石碑にその名の由来が刻み込まれていた。それによる\里海里△燭蠅貿両崋が生い茂っていた△海里△燭蠅枠鵬擲垢如崗貊蠅猟圈廚噺討个譴討い燭それが訛ったかつて「芭蕉」と名乗った虚無僧が住んでいた、などの理由による。



江戸時代にはこのあたりに幕府の制札を立てる場所があったので、正式には「札の辻」と呼ばれていたそうである。

芭蕉は鐙摺、白石、笠島、武隈を通って仙台に入った。しかし、仙台には芭蕉の足跡を思い出させるようなものが意外に少ない。記録によると芭蕉は仙台に3日間滞在して名所見物もしたが、『奥の細道』の仙台の記述は現実感が希薄である。

奥の細道の旅は、日光東照宮大改修を幕府に命じられ、迷惑をこうむっている伊達藩の内情を探る旅であったという説がある。伊達藩は東照宮大改修の費用捻出のため、藩士の賃金3割カットを実施していたという。そういうこともあって、幕府のその筋が曾良に伊達藩の情勢視察を命じたのだという。曾良の経歴にはそうした幕府情報係りのようなにおいが突いて回っている。そうした曾良の存在を目立たせないように芭蕉が同行者にえらばれたのだという。そらは旅行の費用として数十両(現在の数百万円)をあたえられ、そのうちの12両余り(120万円余り)を芭蕉に与えている(村松友次『芭蕉の手紙』大修館書店、1985年; 同『謎の旅人 曽良』大修館書店、2002年)。



芭蕉はそういう曾良の旅に加担することで、奥州旅行を実現させ、その経験にもとづいて自らの芸術観を披瀝した私小説風の『奥の細道』を書いた。『奥の細道』は「紀行」ではなく、宗久の中世紀行『都のつと』にならったフィクションである(村松友次『「奥の細道」の想像力』笠間書院、2001年)。

森鴎外は軍医を生業としながら小説を書いた。金子兜太は日本銀行に勤め俳句をよんだ。ふたりとも時の政府に召かかえられていた。芭蕉が幕府情報班員のお手伝いをしながら、文芸に精進したとしても何の不思議もない。

僧形のあやしき影は二人組芭蕉の辻を今日も徘徊
                   (閑散人 2006.6.17)

次回は信夫文知摺


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