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逆めぐり「奥の細道」 第3章 大垣―金沢
21 感きわまって金沢の慟哭



金沢市・香林坊の交差点から犀川に向かって繁華街を下る。やがて片町のスクランブル交差点にいたる。その交差点の歩道に小さな「芭蕉の辻」の石碑が建っている。芭蕉と曽良が金沢で宿泊した宿屋、宮竹屋がかつてあったところだそうである。



そこから犀川へ出て、川っぷちをふらふら歩くと、室生犀星の記念館や文学碑がある。高浜父子句碑もあって、

  北国のしぐれ日和やそれが好き 虚子
  秋深き犀川ほとり蝶飛べり   年尾

父・虚子のサラダ日記風の句と、子・年尾のへたうま風凡庸句が刻まれている。

芭蕉は『奥の細道』金沢の段を、

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
  塚も動け我泣声は秋の風
    ある草庵にいざなはれて
  空き涼し手毎にむけや瓜茄子
    途中吟
  あかあかと日は難面もあきの風

と、短く、つれなく書いている。

さて、「塚も動け」だが、芭蕉は一笑に会ったことがなかった。直接言葉を交わしたことのない人の死に、これほどまでの慟哭が可能だろうか? 山本健吉は「この句はあまりに誇張に感じられて、長らく好きにはなれなかったが……最近はそんなことはないと思うようになった」という。まだ会ったことはなかったが、書信で長らくにわたって師弟関係を結んでいた人物の死に対する激しい思いが「言語に絶する感情」となり「絶唱」となった、と山本は言う。「塚も動け」と激しく始まり、「蕭状たる秋風」のなかに感情のすべてが吸収されている。ここに俳句の「ひねり」をみる、と山本はいう。(『山本健吉全集 第5巻』)

途中吟の「あかあかと日はつれなくも秋の風」について、子規は、「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」という古歌があり、これは芭蕉の剽窃であると批判した。

『国歌大観』のCD-ROM版で縦横斜めから検索してみたが、この歌は見つからなかった。一説によると足利尊氏の歌だともいう。

子規の剽窃よばわりを不当だとして、芭蕉を弁護したのが寺田寅彦で、「天文と俳句」というエッセイで次ぎのように書いた。

  あか/\と日はつれなくも秋の風  芭蕉
といふ句がある。秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る。すると氣層は其透明度を増して、特に雨のあとなど一層さうである。それで乾燥した大氣を透して來る紫外線に富んだ日光の、乾燥した皮膚に對する感觸には一種名状し難いものがある。……此句も亦一方では科學的な眞實を正確に捕へて居る上に、更に散文的な言葉で現はし難い感覺的な心理を如實に描寫して居るのである。此の句の「あか/\」は決して「赤々」ではなくて、から/\と明かるく乾き切り澄み切つて「つれない」のである。しかも「つれない」のは日光だけでもなく又秋風だけでもなく、此處に描出された世界全體がつれないのである。かういふ複雜なものを唯十七字に「頭よりずら/\と云ひ下し來」て正に「こがねを打のべたやう」である。ところが正岡子規は句解大成といふ書に此句に對して引用された「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」といふ古歌があるからと云つて、芭蕉の句を剽竊であるに過ぎずと評し、一文の價値もなしと云ひ、又假りに剽竊でなく創意であつても猶平々凡々であり、「つれなくも」の一語は無用で此句のたるみであると云ひ、むしろ「あか/\と日の入る山の秋の風」とする方が或は可ならんかと云つて居る。併し自分の考は大分ちがうやうである。此の通りの古歌が本當にあつたとして、此れを芭蕉の句と並べて見ると、「須磨」や「明石」や「吹く」の字が無駄な蛇足であるのみか、此等がある爲に却つて芭蕉の句から感じるやうな「さび」も「しをり」も悉く拔けてしまつて殘るものは平凡な概念的の趣向だけである。



しかしながら、寺田寅彦はうかつにも東京の秋の感覚で、日本海側の金沢の秋を推測してしまった。『理科年表』によると、東京の年間平均湿度は64パーセントで、夏高く秋から冬に向かって低くなる。寅彦のいう「秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して來ると本州中部は常に高氣壓に蔽はれて空氣は次第に乾燥して來る」がこれにあたる。一方、金沢の年間平均湿度は東京より10ポイント高い74パーセント。金沢では春3月から5月にかけて湿度が平均より低く、6月から夏、秋、降雪の翌年2月までは月間平均湿度が年間平均湿度かそれを超えて横ばい状態である。金沢の秋の平均湿度は、東京の梅雨時並みである。寅彦の言うような乾燥した気象と紫外線に富んだ日光の皮膚感覚は、平均的にいえば、金沢ではありえない。

権威を弁護するにあたっては、論理がえてしてずさんになる。健吉にして、寅彦にしてそうだ。

ところで、「あかあかと」は、朝日か? 白日か? 夕日か?

日本海に沈む夕日を眺めていると、1950年代の朝鮮戦争を背景にした米軍射爆場をめぐる内灘闘争を思い出す。日本では成田闘争を最後に大がかりな闘争はすっかり影をひそめ、けち臭い功利主義的競争ばかりが流行るようになった。五木寛之の『内灘夫人』なんて、いまでも読む人がいるのだろうか。

絶唱が絶叫となる多感症君つれなくも一笑に付す 
                         (閑散人 2006.5.6)

次回から第2章「那古の浦−塩釜」。5月15日ごろ再開。




22 小松の兜にむせび泣く

金子兜太他編『現代歳時記』で「きりぎりす」をひくと、

  むざんやな甲の下のきりぎりす    芭蕉
  きりぎりす赤子の呼吸見てをりぬ   日原傳
  柱多き生家の奥のきりぎりす     大石雄鬼
  一匹は愛人のいるきりぎりす     川崎ふゆき
  きっかけの風を待っているきりぎりす 山本敏倖

と例示されている。芭蕉以下、難解な句ばかりである。すべてが心象、あるいは寓意、または象徴の風景である。その心は17文字におさまりきらず、重要なキーが積み残されている。



たとえば、芭蕉の『甲の下』という句は、関が原の古戦場ででも詠んだ句であろうか?それとも、一の谷だろうか、壇の浦だろうか、桶狭間だろうか? 

芭蕉は鎧と兜を意味する「甲冑」の「甲」の方を句に読みこんだが、現在では実は「冑」あるいは「兜」の方だったと一般に考えられている。「兜の下」よりも「鎧の下」のほうが、重みを感じさせると芭蕉は考えたのだろうか? 単に彼が字の意味に無神経だっただけのことだろうか?



それはさておき、『奥の細道』について、井本農一は「紀行が普通の散文ではなく、俳諧と一体不可分の関係にあり、俳諧の発句を抜きにして紀行が考えられない」と説明している(『芭蕉の文学の研究』)。というよりも、『奥の細道』全編が発句とその前書きをつなぎ合わせて構成されているように、この連載の筆者は感じる。前詞としての紀行の地の文があってはじめて、発句の解釈が成立する(それでもなお、成立しないものもある)。一方、地の文は独立した紀行文としてはそもそも力不足を否めない。

『奥の細道』小松・多太神社の段で、芭蕉は実盛の亡霊を呼び出している。

此所、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

 
上記の前書きがあって初めて、「甲の下のきりぎす」の句意がはじめてわかる。



1943年に書いた評論「甲の下のきりぎりす」で、保田與重郎は「ともかくも『奥の細道』には、さふいう義士烈婦に感動した作が多く、ついで慟哭した作がつづいている。その慟哭は、個人の義挙に対する道徳的感情を、己の生命の道として生きるところに現れる」とする(『保田與重郎全集 第18巻』)。芭蕉は人心の創造力を彷彿させるような道徳・義心を表現した美談に感心し喜んだ。「その志が激しい義心に泣き、その心が慟哭の作を生む。その心はつねに慟哭する状態にある心で、何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」と保田は説明する。「何に当たって慟哭するかは第二義の問題でさえあった」という保田のユニークな説明が、『奥の細道』の作為的なテンションの高さの理由をよく説明している。

山本健吉は「知的解釈の必要性や感情の露骨な説明、古典への未練がつき纏い、それが一句の完成を妨げたように思う」という萩野清のコメントを酷だとする。山本は「冑から実盛の首級を想起し、それがきりぎりすの幻想へ連鎖することを思えば、それはまさに実盛の亡霊の化身である。実盛の亡魂を登場させる謡曲を発想の典拠とすることによって、彼の詩的イメージは幾重にも延び広がって行くのだ」と芭蕉を弁護している。(『山本健吉全集 第5巻』)

芭蕉の句には一句独立しての鑑賞が困難なものが目につく。鑑賞に「理屈」が必要なものが多い感じがする。たとえば、『猿蓑』冒頭の二句。

  初しくれ猿も小蓑をほしけ也   芭蕉
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の殸  其角

其角の時雨は説明抜きでストンと落ちるが、芭蕉のそれには何がしの前詞が必要であろう。芭蕉はしょせん五七五の文字数では表現できかねるような世界を、推敲に推敲を重ね、無理やり17文字につめこもうと悪戦苦闘していたように思える。Bashoistはそれを名人芸と褒め称えるが、一方で、それらの力技とも思える作品は、鑑賞する素人に、読解のための多大なエネルギーを強いることになった。

ところで、現在の多太神社には、こぢんまりとした「松尾神社」が作られていた。



むざんやな鎧兜をむしられて白骨むせぶ虫すだく野に             
                      (閑散人 2006.5.4)
次回は金沢




23 那谷寺の白い秋



芭蕉は『奥の細道』那谷寺の段で、

  石山の石より白し秋の風

と句を添えている。

この句の解釈をこれまでにめぐって、少なくとも3つの見解が立てられてきた。

  ‘畸寺の石山より秋の風はもっと白い。
  近江の石山より那谷寺の石山の方がさらに白い。
  6畊召寮仍海茲蠧畸寺の石山の方が白い。秋風はさらに白い。



芭蕉研究者の間では、’両屬了代には那谷寺の石を近江の石山の石と比べる慣わしがすでにこの地にあった、◆崟捗奸⊆覯董白秋、玄冬」の中国の五行説にもとづいた発想である、いや、白く身にしみる秋風は和歌の伝統的情感である。芭蕉はそれに従ったのだという説など、侃々諤々のディベートがあった。

  吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思いけるかな  紀友則
  白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色のあきかぜぞふく    藤原定家
  おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風      西行法師

上記のような和歌の伝統にのって、芭蕉は那谷寺境内の森閑とした静けさ、石山の冷厳な姿のなかに、寺ゆかりの人として伝説になって残っている花山院の生涯に思いをはせ、自然と人生の寂寞感を対置させたという解釈(尾形仂『おくのほそ道評釈』)には、それなりの説得力がある。

さらに、安東次男は大胆不敵にも、下記の金沢での句´△紡海い篤畸寺のを入れることで、
  
  …佑眛阿渦羌磴声は秋の風    (凄)
  △△あかと日は難面もあきの風  (紅)
  石山の石より白し秋の風     (白)

「凄日、紅日、白日」秋三部を工夫したのだとしている(『おくのほそ道』)。

とはいうものの、那谷寺の石山そのものはすでに写真でご覧のとおり白くはない。しかし芭蕉にはこの石山を白くみる必要があった。初めにわが詩の構想があり、それに合わせて彼は現実をそのように脚色したのである。写生ではないのだ。

ただ、「塚も動け我泣く声は秋の風」「あかあかと日は難面もあきの風」「石山の石より白し秋の風」という風が吹き続くとやはり疲れる。芭蕉は読み手を疲れさせることが多い。こうしたときに、

  大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる  山田無文

などを読むと、正直ホッとする。



かあかあと烏さわぎいる夕陽に
      白々しくも秋風ぞ立つ

                     (閑散人 2006.4.30)
次回は小松
  



24 片腹痛き山中の
 
  山中や菊はたおらぬ湯の匂

意味的には隔靴掻痒のこの句をあげて、ホモっ気のある芭蕉が、山中温泉で逗留した温泉宿・和泉屋の主人である当時14歳の久米之助少年の姿をめでつつも、まあやめておこうか、と考えたという意味の句だと、嵐山光三郎『奥の細道温泉紀行』の一節「山中温泉『菊』の謎」はいう。芭蕉がこの少年をかわいがって、「桃妖」という意味ありげな俳号を与えているので、ひょっとしたら芭蕉は「手折ったのかも」と嵐山はかんぐるのである。

芭蕉の衆道好みについては、芥川龍之介も『芭蕉雑記』で取り上げている。芥川は、芭蕉もまた「分桃の契り」を愛したかもしれないが、本格的なものだったとは考えにくいとしている。


山中温泉外湯「菊の湯」

それはさておき、芭蕉が泊まった和泉屋は今日すでになく、その跡地付近には外湯「菊の湯」が建てられている。男湯と女湯が別々の建物になっている豪勢な外湯だ。男湯につかってみたが、浴槽は泳げるほどに広く、また深かった。1メートル以上の深さだった。「菊の湯」の近くには「山中座」がある。ここではピアノ・トリオによるモダンジャズの演奏会もやる。公演予定表にそのような案内があった。



芭蕉は山中でお供の曾良と別れた。

『奥の細道』は次のように物語る。

 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
  行き行きてたふれ伏とも萩の原  曾良
 と書置たり。行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にま
 よふがごとし。予も又、
  今日よりや書付消さん笠の露

『笈の小文』の同行者で芭蕉とのホモ仲を疑われている(芥川は畢竟小説と言下に否定している)杜国との旅で芭蕉は「乾坤無住同行二人」と笠の内側に書いた。曾良との旅でも同じような内容の書付があった、と推測されている。

しかし、胃痛にがまんできず曾良は長島に旅立つ。ひとりになった今となってはこの書付は消さなくてはならない。笠についている涙の滴でこれを消そうか、と解釈されている。山本健吉(『奥の細道』)などがこの説をとる。ドナルド・キーンの英訳(The Narrow Road to Oku, Tokyo, Kodansha, 1996)も

 Today I shall wipe out 
 The words written in my hat 
 With the dew of tears.

と芭蕉が自らの手で消す、という解釈にたっている。

一方、「笠の露が消してくれるであろう」という解釈もあり、 Nobuyuki Yuasa訳のMatsuo Basho: The Narrow Road to the Deep North and Other Travel Sketches, London, Penguin Books, 1966 は、

 From this day forth, alas,
 The dew-drops shall wash away
 The letters on my hat
 Saying ‘A party of two’.

としている。

自分で消そうが、露で自然に消えようがたいしたことではない。だが、次のことはわけがわからない。今日の常識から考えると、病人を一人で旅立たせるのは異常かつ薄情な行為である(元禄でもそうだったろうと愚考する)。普通であれば、温泉滞在を延ばして友の回復を待つだろう。芭蕉は無情にも曾良をひとり先行させた。曾良の気分は、

  行き行きてたふれ伏とも萩の原

によくあらわれている。

それを受けて芭蕉が、

  今日よりや書付消さん笠の露

と、ボルテージをあげた。


与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から山中の段 (逸翁美術館本)

そうか、これまた『奥の細道』の作為なのだ。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」の延長上にある創作なのだ。ただ、作為が過ぎ現実味に欠けるので、ドラマツルギーとしては下手くそだ。

それはさておき、ヘロドトス、法顕、玄奘、イブン・バトゥータ、マルコ・ポーロ、河口慧海といった長距離旅行者からみれば、ほんの箱庭散歩にすぎない東北旅行で、これほどの愁嘆場はいささか過剰であろう。

もし、「笠の露」が演技でないのであれば、芭蕉と曾良の間に何かきまずい行き違いがって別れたという説にも説得力がある。

  曾良「ああ、先に行きますよ。行けばいいんでしょう。私なんぞ道中一
     人でくたばればいいんでしょう」
  芭蕉「お前の名前なんか笠から消してしまうぞ」

実は、曾良が去ったあとも、芭蕉の旅は一人旅ではなかった。金沢から芭蕉と曾良に同行して山中温泉まで来ていた北枝が、芭蕉を福井付近までエスコートして行った。

「旅人と我名よばれん初しぐれ」「野ざらしを心に風のしむ身かな」などと、漂泊のベテランをきどりつつも、芭蕉は曾良なしの旅は心細かったことであろう。曾良は江戸では芭蕉の弟子兼執事兼秘書役、奥の細道の旅路では加えて、コース・ガイド、資料収集係、パーサー(ありていに言うと金の工面係)などを担当したといわれている。曾良は芭蕉より一足先に敦賀にたどり着き、後から来る芭蕉のためにと、その地の知人に金1両を託した。サンチョのセコンドがなければキホーテはなく、曾良がアテンドしなければ芭蕉の奥の細道はありえなかった。


笠ふたつ秋霖に揺れみぎひだりいずれ三途の岸でまみえん                                                   (閑散人 2006.4.27)
次回は那谷寺




25 汐越の松こそめでたけれ
 
芭蕉の西行信仰にはちょっと度を越したところがあり、たとえば、廣田二郎は、芭蕉の『野ざらし紀行』の、

  独よし野のおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峰に重り、
  烟雨谷を埋ンで、山賤の家処々に小さく、西に木を伐音東にひびき、
  院々の鐘の声は心の底にこたふ
 
というくだりは、

  あかつきのあらしにたぐふかねのおとを心のそこにこたへてぞ聞く 西行

を下敷きにしているという。芭蕉は心中ひたぶるに西行を思いつつ吉野の山中をさまよい、鐘の音が聞こえてくると、西行の歌を通して、西行が聞いたように「心の底にこたえて」鐘の音を聞いた。その鐘の音のイメージによって、峰に重なる白雲、谷を埋める烟雨、山賤の家、など取り出し、吉野山の全体的把握をおこなった(廣田二郎『芭蕉 その詩における伝統と創造』)。

汐越の松をたずねた芭蕉は『奥の細道』に次のように書き残している。



  越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。
   夜宵嵐に波をはこばせて
    月をたれたる汐越の松   西行
  此一首にて数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立つるがごとし。


芭蕉自筆『奥の細道』汐越の段

ここの風景は「一晩中海は荒れて、その嵐で打ち寄せられた波の汐をかぶった汐越の浜辺の松から、汐のしずくが月の光りの中でしたたっている」という西行の歌に尽きている。これ以上を何をいおうと、それは蛇足にしかならない。芭蕉はそのように断定した。

汐越の松の旧跡は福井県あわら市浜坂の芦原ゴルフクラブ内にある。ゴルフクラブに電話で見学をお願いし、係りの人に案内していただいた。奥の細道をたどる旅人が年間数百人がこの汐越の松を訪ねてくるそうである。芭蕉の碑は、以前はがけ下の海岸線近くにあったが、浜辺が侵食されて交代したので、上に移されたという。松と海が美しい場所である。



ところが、芭蕉が奥の細道を旅して百年近く後に著された蓑笠庵梨一の『奥細道菅菰抄』が「夜宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」は西行の歌ではなくて、蓮如上人の歌である言われていると、芭蕉の勘違いを指摘した。現代の芭蕉研究者は、素人くさい、あまり上手でもない「夜宵」の歌になぜ芭蕉がコロリと騙されたのか、不思議がっている。 

汐越までわざわざ足を運んだ芭蕉は、この歌が西行の歌であり、それもかなり上出来の歌だと死ぬまで信じて疑わなかった。野球では名選手必ずしも名監督ならず、という。芸術の世界でも制作の名手必ずしも作品の目利きであるとは限らない一例であろう。



世も末だカモメにボール運ばれてツキはおちたり汐越の松
                         (閑散人 2006.4.24)

次回は山中





26 裂けども分かれぬ永平寺

永平寺を開いた道元はずいぶんと癇症な人だったらしい。あるとき、道元は弟子の一人の言行に怒り、その僧を破門した。破門しただけではなく、その僧が座禅していた床板を剥ぎとり、さらに、その床下の土を1メートルほど掘り出して寺の外に捨てた、という伝説が残っている。



永平寺はきびしい修行の寺である。起床時刻は午前3時半である。修行僧は永平寺のあの長い廊下を掃除するときは厳寒期でも素足になる。僧堂の1畳の空間に寝て、半畳の空間で結跏趺坐する。エアコンはない。寺の受付の若い僧に「寒いでしょうね」とたずねたら、「寒くない」とは答えなかった。体育系以上の限界状況下で生活している。にもかかわらず、名僧は長生きだ。粗衣・粗食、ストイックな生活が健康にいいのだ、という説がある。また、そのようなすさまじい生活をのりきれる体力のあるものだけが生き残って、やがて名僧と呼ばれるようになるのだ、という説もある。



道元という人は座禅一筋のお方で、堂内ではたとえ禅の本であれ読書を禁じた。とはいうものの、一方で不立文字を掲げつつ、他方で自身は『正法眼蔵』という、深遠かつ退屈な大著をものした。ときに、歌も読んだが、

  いたづらに過す月日は多けれど道を求むる時ぞすくなき

などという、退屈なものだった。恋歌が得意だった以前の坊さんとだいぶ違う。

芭蕉もこの永平寺を訪れているが、その記述は、

  五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、
  かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや

と、素っ気なく筆をはしょっている。芭蕉はどうやら禅だの修業だのにはあまり関心がなかったようだ。心にかかるのはいつも人情の機微だった。金沢から同行してくれた北枝と丸岡(松岡)・天竜寺で分かれるとき、

  物書て扇引きさく余波哉

と詠んでいる。

この句の原型は「もの書て扇子へぎ分る別哉」だった。

この2つの句の鑑賞については諸説あるが、そのうちのいくつかを紹介する。

尾形説では、「へぎ分る」は実につき過ぎてくどく、「引きさく」という激しい動作にともなう悲痛の情の強さに及ばない。「引きさく」と言った場合には、芭蕉の発句の書いてあるほうを北枝が、また北枝の脇が書いてある部分を芭蕉が持つのである。…・・・思い切って扇を引きさいて別れを告げながら、かつ、なごりを惜しむという屈折した気持ちのあやがでている(尾形仂『おくのほそ道評釈』)とする。

保田説では、「近代俳句観からみると、何といふ誇張かといふやうに考へられ易いが、常住これほどの意気の間に出没してゐたのが往年の俳諧である」。当時の俳諧はイキが良く、強気で、壮者の文学だった。元禄の文学青年は俳諧の周辺に集い、国学時代はその周辺にあり、明治前期は新聞記者の中にあり、大正時代は小説の周辺に集まり、昭和初期には左翼運動の雰囲気にあった(保田與重郎「扇ひきさく」『保田與重郎全集 第18巻』)とし、日本浪漫派の旗手の面目躍如である。ただし、保田は、
  
  この秋は何で年よる雲に鳥

について、「大なる嘆きの中に、萬代の青春をして、その心魂を氷らせるやうな沈痛の雄心を味ふべし」と見立てている。だから、先の解説もそこそこに聞いておく必要がある。この手のレトリックをつかえば、

  古池や蛙飛びこむ水の音
  閑さや岩にしみ入る蝉の声

も、「閑寂の中にこそ乾坤の大音声を聞け」ということになろうか。

安東説では、字を書く以上、白扇だ、というところがみそだと言う。無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇にならぬ、という絶対矛盾に禅機をもとめた句であるとする。つまり、「物書て扇引きさく」とは分かれずに済すくふうである(安東次男『おくのほそ道』)ということになる。こうなってくると、この項の筆者には「!?」である。


春寒し泊瀬の廊下の足のうら 炭太祇

月も見ず花も愛でずに板のうえ沢庵石に時は流れて
                    (閑散人 2006.4.18)

次回は汐越の松




27 福井の庵の借り枕

芭蕉は福井で旧知の等栽のもとをふらふらっと尋ねた。そのまま等栽のあばら家で2晩やっかいになった。それから等栽と2人で敦賀に向かう。

『奥の細道』では、等栽の庵を訪ねたあてたとき、ご本人は留守。無愛想な等栽の妻に「等栽は用があって出かけた。用があるならそこを訪ねよ」といわれ、出かけた先の家で等栽に会っている。続いて『奥の細道』は、

その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立

と書いている。その家とはどこの家か? その家が‥栽の家をさすのか、等栽が訪れていた先の家なのか不明である。まずい文章の一例だ。こんな文章を書いてはいけない。

これまでのところ、芭蕉は等栽の家に泊まったことになっている。しかし、芭蕉が等栽の家に2晩泊まったというのは、芭蕉の作り話だという見方もある。主の出かけた先の家に行けという妻の言は不自然で、実際には芭蕉は等栽が世話した宿に泊まったのだが、それではあまりに曲がないので、等栽の家に泊まったように書いた(齋藤耕子「おくのほそ道解釈の不思議―芭蕉が福井で泊まった家は」『若越俳史』75)。

福井市内に左内公園という小さな、余り立派ではない公園がある。左内公園という名は、そこに橋本左内の堂々たる像が建てられていることに由来する。



橋本左内は、幕末の越前・福井藩士だ。大阪・適で医学を勉強した。藤田東湖、西郷隆盛、横井小南らと交友があった。開国派で、井伊直弼の安政の大獄で処刑された。

その橋本左内10代の作といわれる『啓発録』に次のような言葉がある。

  男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面
  しているかという点のみ。

同じ江戸時代でも、疾風怒涛の徳川時代末期に入っていた。芭蕉が旅におぼれていた元禄とでは大違い。

その左内公園の片隅に史跡「芭蕉宿泊地洞栽(等栽)宅跡」がある。その説明文によると「洞栽という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い木片をもらってきて芭蕉のまくらとした」という。


 
芭蕉は知的に把握した「わび」を、杜甫らの詩のイメージにわせて追体験しようとした。そうした「わび」という生活上の理念の反映が、俳諧における「さび」である(復本一郎『芭蕉における「さび」の構造』)。

  芭蕉野分して盥に雨をきく夜哉

『奥の細道』福井の段も、そのあたりの貧乏ごっこの美学をねらった演出なのだろうが、ピンとくるものが余りない。芭蕉自身もこの段には句を添えていない。

せめて蕪村の絵を見てなにかを感じていただきたい。


与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から福井の場面 (王舎城美術宝物館本)

深川にあればたまには伽羅枕旅にしあれば丸太にて寝ん
                       (閑散人 2006.4.15)

次は永平寺
  



28 月は敦賀の

「名月はつるがのみなとにとたび立」と、芭蕉は福井から敦賀に向かった。敦賀は「この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(つぬが=敦賀)の蟹 横去らふ いづくに至る」(古事記・応神天皇)以来の歌枕である。その敦賀の地で旧暦八月十五夜の名月をながめようというのが、『奥の細道』をしめるにあたっての芭蕉の趣向だった。

日本の古い詩歌は月を好んで歌う。宗祇は79歳のおりの「独吟何人百韻」で、100句のうち10句で月を詠んだ。書割りならぬ一割の月である。その月を愛でるのは中国からきた伝統だ。
 
  峨眉山月半輪の秋
  影は平羌江水に入って流る
      (李白「峨眉山月歌」)

  露は今夜より白く
  月はこれ故郷に明るからん
        (杜甫「月夜憶舎弟」)

  人には悲歓離合あり
  月には陰晴円欠あり
        (蘇軾「水調歌頭」)
  
  この生この夜長くは好からず
  明月明年いずれの処で看ん
        (蘇軾「中秋月」)

『奥の細道』によると、芭蕉は月の明るい旧暦8月14日の夜、敦賀の気比神社に参拝して、

  月清し遊行の持てる砂の上
  名月や北国日和定めなき

と詠んだ。


気比神社の芭蕉像

伝えられるところでは、芭蕉はこの夜、この2句以外に13句、あわせて15句をいっきに詠んだとされている。いわゆる「芭蕉翁月一夜十五句」である。『奥の細道』の「大垣」の段に名前が出て来る、大垣における芭蕉の弟子、宮崎荊口が残した『荊口句帳』に、そのうちの14句がメモされていた。


  名月の見所問はん旅寝せん
  あさむつを月見の旅の明け離れ
  月見せよ玉江の芦を刈らぬ先
  明日の月雨占なはん比那が嶽
  月に名を包みかねてや痘瘡の神
  義仲の寝覚めの山か月悲し
  中山や越路も月はまた命
  国々の八景さらに気比の月
  月清し遊行の持てる砂の上
  名月や北国日和定めなき
  月いづく鐘は沈める海の底
  月のみか雨に相撲もなかりけり
  古き名の角鹿や恋し秋の月
  衣着て小貝拾はん種の月

しかし、これらの句は、たとえば、筆者の好みの古典月3句、
  
  名月や畳の上に松の影    其角
  月天心貧しき町を通りけり  蕪村
  月早し梢は雨をもちながら  芭蕉

と比べると、水準に達していない。「古き名の角鹿や恋し秋の月」などは推敲の手が入っていないせいか、いかにも初心者くさい。

いにしえの恋焦がれたる歌枕角鹿の国の月は待宵
                     (閑散人 2006.4.9)
次回は福井




29 わびにさびたる種の浜(色の浜)

敦賀に着いた芭蕉は敦賀湾を船で渡り、敦賀(立石)半島の色の浜を訪ねた。そのあと再び敦賀に戻り、ここで芭蕉を出迎えた弟子・路通を従えて大垣に向うことになる。

路通は芭蕉の奥の細道の旅のお供の候補者にあげられたこともあったが、芭蕉の高弟たちが、あいつはいい加減なところがあり信用できないと反対し、結局、路通に代わって曽良が起用されることになったという。路通は20代から乞食をしながら諸国を放浪。その途中、琵琶湖畔で芭蕉にめぐり会った。弟子になり江戸・芭蕉庵近辺に住み着いた。しかし、性格にいい加減なところがあってのちに芭門から放逐された。

孔門十哲、釈迦十大弟子にならって、芭蕉の門人のうち,代表的な10人を蕉門十哲と呼び習わしている。その顔ぶれには諸説ある。曽良が十哲入りしているヴァージョンもあるそうだ。だが、路通はいずれの説でも十哲の選にもれている。その程度の評価を受けている俳人だ。


對雲筆「芭蕉と蕉門十哲図」

その路通の句に、

  鳥共も寝入てゐるか余吾の海

があり、芭蕉が「此句細みあり」とほめたと『去来抄』にある。「ほそみ」とは「わび」「さび」「しをり」など数ある蕉風俳諧のキーワードのひとつ。繊細な感受性の表れをそうよんだのであろうと想像される。路通の「鳥共も」の句は、

  こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮 (西行)

と同工異曲のようにも感じられる。このような情緒を芭蕉は「ほそみ」と名づけたのであろう。

さて、芭蕉は、
  
  汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあらん  西行

を胸に色の浜に向かった。

その甲斐あって、芭蕉は色の浜で、王朝文化の「あはれ」、『新古今』の「寂しさ」を超える俳諧の「侘び」「寂び」を発見したのだそうである(尾形仂『おくのほそ道評釈』角川書店、2001年)。『奥の細道』は芭蕉が旅の中で求め続けた俳諧の美のパラダイムを種の浜でついに発見するという構成になっている。

俳諧の「さび」について、芭蕉は自らの筆できちんとした定義を書いていない。中世連歌の「ひえ」「やせ」「からび」や利休の「わびすき」といった、「閑・寂・枯・淡」の変相なのであろう。『去来抄』は、

  花守や白きかしらをつき合せ  去来

を芭蕉が「さび色よくあらはれ、悦候」と評したと書きとどめている。

芭蕉のいう「わび」もまた定義が曖昧だが、世俗の価値観を否定することを通じて精神を拘束するしがらみを解き、物質的な貧しさを希求することで精神的な豊かを招来しよう、という美意識のようである。

このような、「わび」「さび」の原型を芭蕉は西行に求めている。出家、旅、雪月花を愛でる数寄心。後世の連歌師は西行にあこがれ、江戸時代の俳諧師芭蕉もまた人生観や美意識の師として西行を仰ぎ見た。

芭蕉は『奥の細道』種の浜の段を、次のように書いている。

  十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海 上七里あり。天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさ せ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。
  浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒を あたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。

  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵

  其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す


侘しき法花寺こと本隆寺の芭蕉碑

夕暮の日本海・敦賀湾の色の浜の海辺に立ち尽くす芭蕉と等栽、清貧の美の求道者ふたりの姿が眼に浮かぶ。「種の浜の段」はそういう仕掛けになっているのだが、実のところ……。

天屋何某というのは敦賀の廻船問屋の主、天屋五郎右衛門で俳号を玄流。土地の俳人であった。芭蕉に先行して敦賀に来た曽良がこの人に頼んで師匠の色の浜行きの船の手配を済ませていた。「天屋何某と云もの、破籠・小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ」とあるから、船にたっぷりとご馳走を積み、お伴の者も多勢乗り込み、芭蕉と等栽ともども色の浜に向かったのである。蓑笠庵梨一『奥細道菅菰抄』によると、天屋何某自身も芭蕉と一緒に色の浜に渡っている。

「爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれの寂しさ、感に堪たり」という芭蕉の記述に反して、この日のご一行はピクニック風になかなかにぎやかだったのではないか、と思える。

上記、芭蕉の種の浜訪問の詳細は、今で言えば、テレビ局の取材に似ている。「わび」「さび」にみちたシーンを創造するために、にぎやかなクルーが浜をにぎわしたのである。美の核心は「どう見えるか」ということよりも、「どう見るか」ということにある。したがって、芭蕉が孤独のうちに色の浜の夕方を眺めようが、にぎやかなおつきの人々に取り囲まれてそれを眺めようが、そこから抽出してできあがった「わび」「さび」の値打ちに何の変わりがあるわけではない――まぁ、それもたしかに理屈、ではあるのだが…。


色の浜

夕暮は波の寄せ引く種の浜酒をあたためわび色に染む               
                        (閑散人 2006.4.5 )
次回は敦賀 





30 ふたみへ別るる大垣の

田中昭三『芭蕉塚蒐』によると、1991年の時点で、日本国内に芭蕉の碑が2,442あったという。北は北海道の7基から、南は鹿児島まで、九州全域では計216基と芭蕉塚は広がっている。芭蕉の紀行の北限は中尊寺のある岩手県・平泉、西限は神戸市・須磨海岸である。芭蕉が足をのばしていないところにも芭蕉の碑が建てられているわけだ。空海足跡の伝説や、円空彫刻の広がりには及ばないが、芭蕉もまた日本の旅のスターなのである。

西行、宗祇と芭蕉の3人が古典世界の吟遊詩人トリオである。芭蕉は西行と宗祇の2先輩を追って旅に出た。現代の旅人、われわれの旅のほとんどがそうであるように、芭蕉の旅もまた追体験のそれであった。

  年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山  (西行)
  世にふるもさらに時雨のやどりかな           (宗祇)
  世にふるもさらに宗祇のやどりかな           (芭蕉)

その芭蕉の最大の旅が1689年の「奥の細道」の行程で、5月16日(旧暦3月27日)に深川を発ち、約5ヵ月後の10月初旬に旅の終わりの大垣にたどり着いた。


与謝蕪村筆「奥の細道画巻」から大垣の段 (逸翁美術館本)

芭蕉は大垣を4回訪れている。友人の谷木因が住んでいたからであった。木因は北村季吟のもとで芭蕉ともども俳諧を学んだ同門の友人。岐阜大垣の廻船問屋の主で、当時の大店の旦那あるいは隠居の教養科目としての俳諧の岐阜における中心人物だった。

大垣は水運の町で、揖斐川につながる運河・水門川が桑名や三河と大垣を結ぶ人とモノの輸送ルートだった。水門川沿いに芭蕉の「奥の細道」の旅の終点を記念して「奥の細道むすびの地記念館」が建てられている。


水門川


芭蕉は大垣で弟子の路通、曽良や大垣の俳諧愛好者ら12人で歌仙「はやう咲」を巻いている。大いなる感銘を受けるほどの作品ではない。その後、芭蕉は水門川の船町港から舟で揖斐川へと出て、長島・桑名経由で伊勢に向かった。船町港跡には灯台が残っている。



  秋の暮行先々は苫屋哉   木因
  萩にねようか荻にねようか はせを
  霧晴ぬ暫ク岸に立給へ   如行
  蛤のふたみへ別行秋そ   愚句(芭蕉)

船町にある芭蕉送別句塚には上記のような句が刻まれている。同じ船町の蛤塚には

  蛤のふたみに別行秋そ   芭蕉

と刻まれている。『奥の細道』執筆のさい「ふたみへ」を「ふたみに」と修正したらしい。

さて、奥の細道の数年後に深川の芭蕉が大垣の木因に宛てた手紙によると、芭蕉は木因から紙を送ってもらった礼を述べている。時期的に見て、芭蕉はこの紙を使って、『奥の細道』を書いたのではないか、という説もある。芭蕉は、木因にはことのほか世話になった。しかし、『奥の細道』大垣の段では、路通、曽良など6人の名をあげている一方で、木因の名はいっさい出していない。後年の芭蕉・木因不仲説など、芭蕉の研究家の説はさまざまである。風雅の世界にもまた、興味津々の人間模様が織り込まれている。


左から木因、芭蕉の人形


桜東風一歩踏み出す背にうけて峠越えればきょう春時雨
                              (閑散人 2006.3.31)
                
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大垣に近いここ愛知県北部でも昨日の朝雪が降りました。ちょっと咲き始めた桜のつぼみも首を引っ込めてしまいました。深川から平泉までの紀行は時々眼にしても、その後大垣に着くまでの途中はついて行けなくなってあまり馴染みがありません。だからこの逆巡りの行先?(後方?)大いに楽しみです。
| 酔馬 | 2006/03/31 11:06 PM |









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