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renga: a chain of poems
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タリム周縁 その4 天山南路
27 キジル千仏洞

 西安のホテルの売店で買った『毛主席語録』の復刻お土産版を、旅の途中、睡眠薬代わりに読んでいた。イデオロギーも政治理論も歴史観もタクラマカン沙漠の風紋のように変わる。
 毛語録はいう。「社会主義は、とどのつまり、資本主義にとって変わるであろう。これは人々の意志によっては左右できない客観法則である」(1957年)。なるほど。
 社会主義市場経済という名で資本主義化の道を突き進む今の中国を伝えるアメリカの新聞の見出し。Better rich than red. なるほど。
 毛語録はいう。「われわれはいま、社会制度の面で私有制から共有制への革命を行っているばかりでなく、技術の面で手工業から大規模な現代的機械生産への革命を行っており、この二つの革命は一つに結びついている」(1955年)。なるほど。
 今の中国のホテルのロビーでみた標語。「党の組織的凝集力、戦闘力と影響力を増強し、非公有企業の健康な発展を促進しよう」。現代的かつ効率的な経済活動のための革命的手段としての非公有促進ですか。なるほど。
 


世の中は公有私有おなじこと
銭コネ持たぬ路傍の衆生

(閑散人)

 そのむかし、アメリカの政治学者が次のような公式を書いた。中国共産党−社会主義経済+市場経済=国民党。市場主義経済を推進する共産党支配の中国は、もはやどこにでもある権威主義国家に過ぎない。中国は私有制をみとめ、ブルジョアジーの共産党入党を認めた。理論的に証明されてはいないが、経済発展は民主化促進への圧力を生む、とよくいわれる。国家資本主義から市場資本主義へと突き進む中国で、やがてどんな政治変動が生じるのだろうか。もっとも、ブルジョアジーとはいっても、その多くは国営企業の幹部や政府高官が変身したものだから、当面は共産党支配の現状維持を望むだろうという説も強い。ぜひ、長生きして見物したいものだ。
 クチャ近郊にあるキジル千仏洞を見に行った。この石窟の仏教壁画も他の石窟寺院と同じように、ムスリムによって破壊され、西洋の探検隊に剥ぎ取られ、紅衛兵にも荒らされた。
 千仏洞のガイドがこんな民営化の話をしてくれた。2005年8月に北京に本社のある「中坤」グループが千仏洞の観光経営を政府から任された。中坤グループは傘下に中坤旅游という旅行会社を持っている。この旅行会社は新疆南部で手広く商売をしている。中坤は1年間100万元の賃貸料を政府に払うことを条件に千仏洞の経営権を手に入れたのだそうだ。



剥ぎとられむしりとられて千仏洞
(mandala)

 千仏洞からクチャの町に帰った。泊まったのは8月に新館がオープンしたばかりのホテル。レストランの階上の広間では、近くの共産党事務所の人やお役所の人がひっきりなしに宴会を開いているので、ツーリストの皆様へ十分なサービスが行き届かず申し訳ないと、ホテルの人が言っていた。お偉方は野菜代程度の支払いで、宴会を開いているのだそうだ。

(2005.11.22)


28 スバシ故城

 クチャは漢字で庫車、昔は屈支、亀茲とも書いた。天山南路最大のオアシスだった。音楽があふれる町だった。クチャの音楽はかつて亀茲楽とよばれた。ここの楽器とそれよって奏でられる音は、シルクロードを東にたどり、やがて海を渡って日本に至り、雅楽に大きな影響を与えた、といわれる。そのお返しかどうかはしらないが、クチャの町を散歩していたとき、遠く東海の島国からシルクロードを西行してやってきた現代の文物交流を目にした。

 

 玄奘はクチャについて、屈支国の気候は穏やかで風俗はすなおであり、インド系の文字を使い、管弦伎楽は特に諸国に名高い、と『大唐西域記』に書き残している。
 屈支国では幔幕を張り、亀茲楽を奏でて、国王や高僧ら数千人が玄奘を出迎えた、と『大慈恩寺三蔵法師伝』は言う。
 閑話休題。玄奘はクチャのどこかで聞いた素っ頓狂な物語を『大唐西域記』に書き残している。あるとき王様が弟にあとを任せて仏陀の聖跡めぐりに出かけた。弟は自分の男根を切り取って金の箱に収め、ご帰還の後お開きくださいと王様に渡した。王様が帰還後、王弟が宮廷内の風紀を乱したと告げ口するものあった。激怒した王様が弟に厳罰を加えようとしたとき、弟は箱を開いて中のものを見るように王様にいった。このようにして弟は災難を逃れた。その後、弟は去勢されそうになっている500頭の牛を憐れんで買い取った。この慈善によって、弟の男根はやがて元通りになった。めでたいことである、と王様は伽藍を建てて記念とした。
 さて、玄奘は河をはさんで東西2ヵ所にあった昭怙釐(しょうこり、zhao-gu-li)とよばれた伽藍を訪れ、「仏像の荘厳はほとんど人工とはおもえず、僧は持戒はなはだ清く、まことのよく精励している」と書きのこしている。現在ではスバシ(蘇巴什)故城とよばれているところである。
 玄奘三蔵にひかれ、この高僧が歩いた道のほとんどすべてをたどって旅したNew York Timesの書評担当記者のRichard Bernsteinは、その旅行記Ultimate Journey, New York, Alfred A. Knopf, 2001で、スバシ故城にたたずんださいの感想をつぎのように書いている。
 スバシ故城を見ているうちにリチャードさんはすっかりメランコリックな気分になり、「玄奘三蔵のこと、昭怙釐のこと、私の出自のこと、それらすべてが混じりあって、1つの旋律となって流れて行った。主題は、消え去りし時、失われし場所であった」。さもありなん……と筆者も同じ場所に立って、そう感じた。。



秋風孤塔渡りけり昼の月
(鰻鱈 2005.11.24)




29 西気東輸

 コルラはトゥルファン、クチャとならぶ天山南路の主要なオアシスだった。「香梨」とよばれるナシがここの特産品で、9月ごろこれが出回るとタリム盆地に本格的な秋が来る。
 コルラは1984年に南疆鉄道によって東のトゥルファンと結ばれた。鉄道は1999年に西のカシュガルまで開通した。
 コルラの特産品は、いまや、石油・天然ガスである。この町にはタクラマカン沙漠の石油発掘の総司令部がおかれている。タリム盆地の天然ガスをはるか4,000キロ以上も離れた上海まで送るパイプランも完成した。天然ガスを西の生産地から東の消費地に送る。これを「西気東輸」とよんでいる。
 タリム盆地のエネルギー資源を東に送る仕事を求めて、漢族が東から西にやってきた。コルラの人口増加率はこのところ年1割ほどである。増えているのはもっぱら漢族。2004年のコルラの人口は40万人だったが、うち漢族64パーセント、ウィグル族34パーセントと、ウルムチとならんで、漢族の構成比が高い町になっている。



中華とはいえどもここはアッラーの
おわせし土地と知るや肝心

(閑散人)

 ウィグル族から見れば、一連の西部開発はウィグル族の周縁化、タリム盆地の北京への従属化をともなって進んでいるように見えるだろう。新疆では、民族間格差を次のように表現する。カザフ族が羊を飼い、ウィグル族が売って、漢族が食べる。新疆ウィグル自治区内の貧困県は24県あり、このうちウィグル族の民族構成比が高い南新疆に17の貧困県がある。
 石油と天然ガスの生産が本格化したここ10年ほどで、コルラの町は大変貌を遂げた。広い道路が建設され、それに沿って高層ビルが立ち並んだ。沙漠の北辺でバブルのような建設ラッシュが始まったのである。



on the desert brim
they build bubble towers
until they turn into babels

(flores)

 われわれ旅行者は9月21日、コルラの石油・天然ガス・コンプレックス敷地内にあるホテルに宿泊した。日本に帰って、われわれがコルラをたった翌日の23日、ウィグル族のコルラ市長、ムタリプ・ユスプ氏が自殺したというニュースをウィグル関連のインターネット・サイトで知った。中国のメディアは例によって報道を控えているので、詳しいことはわからない。汚職の容疑をかけられていた、市長は誤った政府の政策のプレッシャーを受けていた、などとサイトではうわさされている。経済が急膨張することで生じたさまざまな利害関係と思惑、漢族増加による民族間の軋轢などを考えると、ウィグル族のコルラ市長の死の背後には、なにやら、いわくありげなドラマがありそうに思えてくる。

(2005.11.25)



30 新疆50周年

 天山南路の国道314号は西域南道の国道315号に比べて交通量がはるかに多い。第3セクターで生き残った過疎地域の鉄道ダイヤと、都市郊外バスのダイヤくらいの違いがある。
 天山南路では治安当局が道路端に臨時の検問所を設けて、バスやトラックを検問していた。われわれ外国人団体旅行者のバスも3回ほど道路わきに停車を命じられた。運転手とガイドが当局に対応するだけで、短時間で通り抜けた。しかし、定期の長距離バスは、道路沿いの空き地に誘導され、全員がバスからおろされ、テントの中で一人ひとりに調べられていた。
 まじかにせまった2005年10月1日の国慶節が、新疆ウィグル自治区成立50周年の節目の日だったせいであった。
 BBCによると、東トルキスタン解放組織があらゆる手段を使って中国に対して武装闘争を挑む、というビデオ声明を流した。亡命ウィグル人の組織である世界ウィグル会議も中国に対して「政治的抑圧、文化的同化政策、経済的搾取、環境破壊、人種差別によって、新疆が時限爆弾になる危険性が高まっている」と警告の声明を発表していた。
 これに対して中国当局はきびしい警戒態勢をしいた。治安責任者はウィグル分離主義者に対する取締りの徹底を命令していた。
 BBCによると、中国政府は分離主義者をテロリストと定義しており、過去20年に260件のテロ事件がおきたと発表している。タリム盆地周縁でのウィグル分離主義者と中国当局の衝突については、中国政府の発表、ウィグル民族組織や反中国団体の発表、西側メディア、西側人権団体が伝える未確認データも含まれた情報が錯綜している。軍事情報で有名なJane’s が出しているForeign Reportによると、1949年から1972年までに548件の暴動があり、36万人が殺された、という。
 天山南路を走るバスの車内で揺られながら、筆者はChina's Wild West という言葉を思い出した。この言葉は西域南道では思い浮かばなかった。
 コルラからトゥルファンへ向かう、道端の食堂で麺を食べた。野菜だけの精進ラグ麺だった。ウィグル人のガイドが、調理場を視察したあと、肉を使わないよう調理人に指示したためだ。



太麺や情緒途切れる昼下がり
(鰻鱈 2005.11.28)



31 アスターナ古墳

 NHKが初代シルクロード・シリーズの取材を始めたのは1979年のことだった。このシルクロード・シリーズ放送に続いて、中国政府は新疆地区の主要観光地を外国人に開放していった。
 自宅の本棚から陳舜臣・NHK取材班『シルクロード 第5巻 天山南路の旅 トルファンからクチャへ』(日本放送出版協会)をひっぱり出した。本の中から古い新聞記事の切り抜きが出てきた。朝日新聞(1979年3月15-17日夕刊)掲載の「トルファンの冬−中国・遺跡の旅から」。当時は考古学者や歴史学者、ジャーナリストらの訪中団見聞記が、まだ堂々と夕刊文化面の3回シリーズになった。
 この記事の筆者の玉利勲・朝日新聞編集委員はトゥルファンでアスターナ古墳を訪れた。古墳の内部を玉利氏は「…見事な壁画があった。白いしっくいの地塗りの上にべんがらで六幅の形に仕立てた画面には、赤、黒、青、緑でかれんな草花や水鳥が描かれていた」と書いていた。
 この古墳は現在も公開されており、中国南部出身の漢族のお役人が、トゥルファン勤務を命じられ、そのまま赴任先で死ぬ定めとなり、ふるさとの草花や鳥で墓室を飾った、と観光客はガイドから説明を受ける。
 アスターナ古墳の壁に描かれた望郷の草花と水鳥。帰りたい人。第3回「玉門関・陽関」で引用した李白の子夜呉歌の1節「何れの日か胡虜を平らげ 良人遠征を罷めん」。帰りを待ちわびる人。日本に“企業戦士”とよばれた人々がいた。その人々が海外単身赴任をし、引き起こした家庭悲劇が話題になった。むかしもいまも、同じ悲歌。
 2005年になってから、新疆生産建設兵団の“生産戦士”の暴動が相次いでいる、と2005年8月17日の毎日新聞が報じた。7月には天山南路のクチャ‐カシュガル間にあるアクスで、兵団員による武装暴力事件があった。このため、黄菊副首相が7月27日から1週間、新疆ウィグル自治区を訪問し、兵団対策の強化を話し合った。生産兵団の“戦士”は、ウィグル族の暴動事件などのさい鎮圧のために動員される。しかし、自らが暴動の主役になることもあるようだ。
 毎日新聞によると、中国各地から集められた団員で構成される漢族中心の新疆生産兵団の中にも南北問題があり、南部の兵団で経済的立ち遅れが目立っている。こうした南部の兵団では生活苦に耐えかねて、それそれの出身地に帰りたいと希望する漢族の団員が増えている。しかし、その希望はおいそれとは聞き入れられず、兵団員の不満が爆発して暴動になっている、そうである。
 玉利氏はアスターナ古墳を「広大な砂地にまるい土盛がつづくだけの平凡な風景だった」と描写した。今でもそうである。にもかかわらず、ここに立つと、遠い昔の見ず知らずの人とはいえ、つい、その人たちの人生とその終焉に思いをはせてしまう。墓地の気配というものに心が支配されるからだろうか?
 Shake your tomb, reply!
 My voice that weeps for you
 Is the autumn wind
 (Basho=Keene)

 Under such a large stone stele he lies dead
 (Hosai=Sato)



dig here to see
great human follies;
sing low your elegy

(Flores 2005.11.29)


32 ベゼクリク千仏洞

 トゥルファンには、前回触れたアスターナ古墳をはじめ、ベゼクリク千仏洞、高昌故城、交河故城と名所旧跡が多い。観光客は炎暑の中を押し合いへし合い名所を駆け巡っていた。
 ベゼクリク千仏洞は、火焔山の山麓の断崖に掘られた仏教石窟寺院。寺院の入り口近くに安っぽい遊園地風の施設が急造されていた。以前来たときにはなかった。



 高昌故城は漢人の麹氏が建てた高昌国の王城の跡。628年に国王麹文泰はここに玄奘を迎えた。国王はこの地に永く留まってほしいと玄奘に頼む。玄奘は国王の要請を拒み、早くインドへ旅出させてくれとハンストに入ったそうだ。玄奘がインドへ去ったあと、麹氏の高昌国は唐によって攻められ、640年に滅んでしまった。 
 交河故城は干上がった2つの河が交差する場所にあるので、そうよばれている。土で造られた寺院や役所や住宅の遺構がある。土ばかりの遺跡が暑さを余計に強める。
 トゥルファンはウィグル語で「くぼんだ土地」の意味だと観光案内に書かれていた。市街地の南にあるアイディン湖は海抜マイナス155メートル。154メートル説もあるが、なにしろ、年間降水量15.6ミリに対して年間蒸発量が2539.41ミリの土地である。雪どけの春は水をたたえるが、夏は蒸発し、湖底がみえてくる。海抜マイナス155メートルというのは、湖底のことか、湖水面のことか?
 トゥルファンの年間平均気温は14.4度だが、夏季には最高気温の平均が38度を超える。これまでに記録された最高気温は49.6度。想像もつかない。観光案内によると、太陽に照らされた地表の温度が80℃にもなる日があるそうだ。そこで、この地では「壁のうえでパンを焼く」という言い方があるという。文字通りの「火州」。トゥルファンについては、9月というのにひどく暑かった、という記憶ばかりが強い。



タリムなる盆地のえくぼトゥルファンは
空釜を焚く焦熱地獄

(閑散人 2005.12.3)



33 地の恵み
 ハミからトゥルファンにかけては、トゥルファン(吐魯番)の「吐」とハミ(哈密)の「哈」をとって、トハ(吐哈)油田と名づけられた油田地帯が広がっている。観光客がトゥルファンの街のホテルからベゼクリク千仏堂や高昌故城を往復する道からも、油井ポンプや、やぐらの上で余剰ガスを燃やすフレアスタックが赤く炎をあげているのが見える。ここでもまた、荒地が富を生み出している。
 火焔山が太陽に照らさて地表温度をあげ、陽炎がゆらめいて山肌が燃えているように見せる。その熱い山並みを背景にフレアスタックが燃えているのである。
 一方、ものみなすべてを蒸発させるそのトゥルファンの地表の下を冷たい天山の雪解け水が流れている。地下水路カレーズである。飲んでみたが、それほどうまい水でもなかった。
 カレーズはイランで生まれた乾燥地帯の地下水路カナートがトゥルファンに伝わったという説がある。一方、中国の学者たちは、イランから伝わったという証拠はなく、中国が独自に開発した技術だと主張しているそうだ。
 それはさておき、カレーズはトゥルファンを中心に、隣接するトクスン、シャンシャン、ハミにあるが、年々その数が減っている。新藤静夫氏がインターネット・サイトで掲載している論文「新疆ウイグル吐魯番(トルファン)盆地のカレーズ」によると、カレーズの数は1962年1,200余、1987年1,156だったものが、最近では725に急減しているそうである。
 原因はカレーズを維持するよりも深井戸を掘ったほうが安あがりだからだ。深井戸は1949年に1,049だったが、1987年には4倍増の4,000に達したそうである。深井戸から水をどんどん汲みあげたため、1974年ごろから干上がるカレーズ現れてきたそうだ。さらに、1989年ごろから本格化したトゥルファン盆地での石油開発で、人口が急増し、地下水の利用が増えた。新藤論文によると、石油開発が本格化した1989年から1991年の2年間だけで、3メートルの地下水位の低下を示した場所が多くあったそうである。カレーズの平均水深は1.5メートルで、地下水位の低下はカレーズにとって致命的だった、と新藤氏は書いている。
 このシリーズ第2回「月牙泉」で「沙漠の砂山の中に忽然と現れる泉――奇跡といわれている鳴沙山のふもとの月牙泉は、水位が下がり、やがて枯れ果て、沙漠のなかに消えようとしている」と書いたのと同じことが、同じ原因でここでも起きている。



トゥルファンや水と油の地の恵み
(鰻鱈 2005.12.3)



34 赤色産業

 トゥルファンは有名なブドウの産地である。
 初唐の詩人王翰の涼州詞。
 
  葡萄の美酒夜光の杯
  飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
  酔うて沙場に臥す君笑うこと莫れ
  古来征戦幾人か回る

 涼州は河西回廊の現在の甘粛省武威県。夜光の杯は、おそらくホータンあたりから来た白玉の杯。葡萄の美酒は西域のぶどう酒。長安から西征し、沙漠で戦死する兵士は多い。せめて生きている間は玉の杯でワインを飲もう。酔って沙漠で眠ったとしても、笑わないでくれ。そういっているのだが、これは漢族の心情。相手だった西域の民族がどう思っていたかは、どうも詳しくわかっていない。
 トゥルファンでも干しブドウのほか、ワインの醸造に励んでいた。
 中国人がワインを愛飲する傾向が目立ち始めている。1990年代に外国のワインが輸入され、豊かになった都市部の中国人の食卓に白酒に代わってワインボトルが置かれるようになった。洋風化した中国人のなかから、日本や韓国にちょっと遅れてワインスノッブが現れはじめた。
 1999年代の後半で、中国のワイン消費量は6割増、中国産のワイン生産量は3割増になった。ワインの世界の消費量は1人当たり年間平均7.5リットルで、中国では0.5リットル。この先中国人の中産階級(という言い方は、中国の国家原則からして変な気がするが、実際に出現しているので、まあいいか)の数が増えるにしたがって、ワイン消費量はどんどん伸びると業界は予測している。
 トゥルファンのワインも、河北省の長城ワイン、山東省の張裕ワイン、天津の王朝ワインといった国内ブランドを追って売り込みをはじめている。
 中国ワインはまだ国際市場に本格的に進出するだけの力はないが、新疆地区が中核の、赤色産業、つまりトマト加工品は世界市場に進出している。もともと中国は世界第1位のトマト生産国だ。世界中の生産量の約2割を占める。新疆ウィグル自治区では、トマトケチャップの生産が急成長している。世界市場の3割を占めているといわれる。
 ところで、白色産業の新疆綿花もそうだが、赤色産業のトマトも、例の漢族中心の“屯田兵”集団である新疆生産建設兵団がもっぱら手がけている。タリム盆地の石油産業の中核にいたのは漢族だった。コルラは急速に漢族の町に変貌していた。
 西部大開発は多くのウィグル族の家の前を素通りしている。ウィグル族は旗色が悪い。



開発の風は沙漠を吹き抜けて
(鰻鱈 2005.12.4)



35 風の丘

 大がかりな風力発電基地は1990年代のはじめ、カリフォルニアで見たことがあった。サンフランシスコの東、アンタルモント・パス。カリフォルニア州は、こことあと2ヵ所の風力発電基地で、1990年代中ごろには世界の総風力発電量の3割を発電していたそうだ
 同じような風力発電基地が、ウルムチ近郊のトリ地区にあった。トゥルファンからウルムチに向かう高速道路沿いの丘の上である。巨大な風車が林立している。最近、日本の企業もここの風力発電事業に参加することになったそうだ。われわれ旅行者がここを通り過ぎたとき、なぜか風車はまったく回っていなかった。
 旅行者がここを通るとき必ず聞かされるジョーク。トゥルファンからウルムチへ出かけたウィグル族の老人が、トゥルファンに帰ってきて言った。「トゥルファンがやたら暑く、ウルムチが涼しい理由がわかった。丘の上に大きな風車を据えて、天山から吹いてくる涼しい風を全部ウルムチのほうへ送っているからだ」。



棒立ちであとは天山風まかせ
(鰻鱈)

 ウルムチから西安行きの飛行機に乗る前、市内で昼飯を食った。ウルムチは大都会だ。そして漢族の街だ。昼飯は大清花餃子店。中国の満州料理レストラン・チェーン店である。店内には清朝の皇帝のポートレートが張ってあった。
 満州族の清王朝はウルムチを迪化と名づけ、清朝による新疆支配の中心とした。満州族騎兵の大部隊を駐屯させた。グレート・ゲームの19世紀、ロシア帝国の東進を防ぐための軍事拠点だった。

(2005.12.4)


36 西域三十六国

 西域という言葉は中国の歴史書『漢書』ではじめて使われた。漢書西域伝によると、漢の武帝の時代、西域ははじめて中原の王朝の支配を受けた。36国が漢に内属した。その後、漢の宣帝は紀元60年、西域統轄のために西域都護府を設けた。これをもとに、中国政府は、前漢は西域で国家主権を行使しており、西域は紀元前から中原の支配下にあった。現在の新疆は当時から中国という多民族国家の一部であった、としている。
 以後、後漢、 隋、唐、元、清の時代を通じて、中原の中央政府は西域に対して、時代によって強弱はあったが、国家主権を維持してきた。そこへ9世紀ごろウィグル族がやってきて住みついたのである。現代の中国政府はそう主張している。
 一方、ウィグル族の民族主義者たちは、現在のウィグル族は、漢が西域に現れる前からタリム盆地とその周辺に住んでいた先住民の子孫だと主張している。モンゴル高原からやってきたテュルク(トルコ)系の民族がタリム盆地に住んでいたインド・ヨーロッパ系の民族と交じりあって、今日のウィグル族になったというのである。
 この2つの主張が今後どう展開してゆくのか、なかなかのみものである。現在は中国共産党政権が新疆ウィグル自治区で圧倒的な力を見せている。だが、帝国は時間の経過とともに崩壊してゆくものだ――ペルシャ帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、大英帝国。ロシア帝国の後継者ソ連は経済的に立ち行かなくなって崩壊し、中央アジアのイスラム圏の国々が独立した。中華帝国の後継者中国では、経済発展ゆえに共産党支配が崩壊することがあるかもしれない。清朝末期から中華民国の時代にかけて中原の力が衰弱したとき、西域にはウィグル族の国家が短い期間だが成立していた。
 西安にたどり着くと、秋雨が降っていた。久しぶりの雨だった。西安は、西域進出をはじめて試みた漢の武帝の曽祖父、高祖(劉邦)が首都に定め、その後隋、唐にその名を引き継がれた都「長安」の後継である。



長安は歴史にそぼ降る秋の雨
(鰻鱈 2005.12.5)
                 
                       ―おわり―















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