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renga: a chain of poems
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タリム周縁 その3 カシュガルあたり
20 香妃墓

 3人の女の物語がある。
 まず、香妃。
 台北の故宮博物院にあるカスティリオーネ(郎世寧)作「香妃戎装像」は甲冑で身をかためた美女図である。この絵のモデルである香妃は清の乾隆帝の後宮にいた側室の1人で、容姿端麗、心地よい体臭を発するウィグル人の女性であった、と言い伝えられている。



 この女性は、清朝に対して反乱を起こしたカシュガルのホージャ家の出で、夫が清の軍隊に殺された後、生け捕りにされて北京に運ばれ、乾隆帝の側室にされた。しかし、乾隆帝の意に従おうとしなかった。それをとがめた乾隆帝の母親に自決を命じられ、首を吊って死んだ。乾隆帝は遺骸を3年がかりでカシュガルに送り返した。香妃の棺はカシュガルのホージャ家の霊廟の中に安置されている。



 次に、容妃。
 清朝の公式記録によると、乾隆帝の側室に香妃という名の女性はいなかった。容妃という乾隆帝の側室がいて、ウィグル人だった。容妃はホージャ家につながる一族の出だが、ホージャ家の反乱のときは、彼女の家族は清の軍に加担した。反乱鎮圧後、論功行賞で一族は北京によばれ、カシュガルには帰らず、北京に定住した。乾隆帝がウィグル人の容妃を後宮に入れたのは、ウィグル族との和解のジェスチャーである。ということで、容妃は乾隆帝の配慮もあって、ハッピーな暮らしを続け、54歳まで生きた。北京市の東、河北省遵化市の清東陵に墓がある。
 最後に王昭君。
 匈奴内で後継争いがおきたため、都合で漢に接近した呼韓邪単于に、漢の元帝は宮女王昭君を与えた。中国4大美人の1人、選ばれて匈奴の王に贈られた漢代の王昭君の物語は、後世、元の馬致遠が戯曲『漢宮秋』を書いて以来、政略結婚の代表的悲劇とされてきた。とはいうものの、『漢書匈奴伝』には、王昭君は匈奴の地で、呼韓邪の間とに男の子1人を生み、呼韓邪の死後、彼の正妻の長男と再婚して2人の女の子を生んだ、とそっけない記録が残っている。現代では、かつての匈奴の地、中国・内モンゴル自治区のフフホトに王昭君の墓がつくられ、彼女が呼韓邪と馬上で並んでいる像もある。漢族と匈奴の異民族間の交流と平和に尽くした女性というイメージ作りがさかんに行われている。
 さて、佐口透『新疆ムスリム研究』(吉川弘文館、1995年)は、香妃墓についてさまざまな過去の文献にあたって詳細な検討を加えている。それによると祥妃というウィグル女性も乾隆帝の後宮にいたという。彼女が香妃のことであるという説も紹介されている。どうも、はっきりとこれが史実だというものはうかびあがってこない。香妃、容妃、祥妃、その他北京の宮廷にあがったウィグル女性のはかなりいたのだろう。それらの女性をめぐるお話が香妃と容妃の2タイプの女性像に収斂されたらしい。
 香妃と容妃はダブル・イメージである。どちらが実像でどちらが虚像か? カシュガルのウィグル族にうけているのは圧倒的に香妃伝説の方である。大勢がそう信じたいと願えば、それは史実として機能する。漢族側は、容妃をモデルにして、王昭君に用いたと同じ民族史の修正解釈をまだ打ち出していない。

 

窓ごとに違う異郷の眺めかな
(mandala 2005.11.5)


21 グレート・ゲーム

 カシュガル市のセマン(色満)通りに、チニバグ・ホテルとセマン・ホテルという由緒あるホテルがある。外国人観光客がよく利用するホテルでもある。
 チニバグ・ホテルは20世紀の前半にイギリスがカシュガルに設置した総領事館の跡地に建てられた。チニバグとはChinese gardenの意味で、総領事館名物果樹園だった。この果樹園の跡地にホテルが建てられた。旧総領事館の建物も残っていて、ホテルのレストランに使われている。



 セマン・ホテルは同じころの(ロシアおよびソ連)総領事館跡地に建てられたホテルである。こちらも総領事館の建物が保存されている。



 タリム盆地は天山山脈、パミール高原、崑崙山脈に囲まれている。出入りが極めて難しい。20世紀初頭、地の果てだったカシュガルに、なぜ英露は総領事館を置いたのだろうか。
 アフガニスタンのワハン回廊はイギリスとロシアというかつての2つの帝国が正面衝突しないように設けた緩衝地帯の痕跡だ。ロシア帝国は中央アジアをその版図に組み入れながら南下していた。イギリスは植民地インドの利権を守るためにロシアの南下を食い止める工作を続けた。
 イギリスは19世紀から20世紀かけて3度もアフガニスタンと戦争をしている。ブレジネフ時代のソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻、ソ連解体の一因をつくった。グレート・ゲームについては、ピーター・ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム』(中央公論社、1992年:Peter Hopkirk, The Great Game, 1990の抄訳)が詳しい。「グレート・ゲーム」という用語は、植民地インドの軍人たちが口にしていたが、ルディヤード・キップリングが『キム』の中で使い、その用法が定着した。蛇足までに。
 そうした英露の帝国主義的野望のための情報収集拠点として、タリム盆地の西端のカシュガルに総領事館が設けられた。駐カシュガル英国総領事館の初代総領事はジョージ・マッカートニーという、英国人の父と中国人の母を持つ人物で、28年間も総領事を務めた。詳しい話は、C. P. Skrine and Pamela Nightingale, Macartney at Kashgar, London, Methuen, 1973あるいはマッカートニーの妻の回想録Lady Macartney, An English Lady in Chinese Turkistan, (reprint), Hong Kong, Oxford University Press, 1985にゆずる。
 チニバグには20世紀初頭、タリム盆地の探検にやっていてきたスタイン、ルコックらをはじめ大谷探検隊の橘瑞超らも客として迎えられた。ロシアと英国2つの領事館は互いにタリム盆地のオアシスに情報網を築きあげ、タリム盆地にやってくる外国人や、清国および中華民国の動静、あるいはお互いの領事館同士の動きを見張り続けた。
 今では中国政府がタリム盆地で、東トルキスタン分離運動の動きを監視している。日本の外務省の海外安全情報によると、「中国におけるテロ事件は主として新疆ウイグル自治区内で発生しています。同自治区では、ウイグル族を主体とする少数民族の一部がいくつかの地下組織を結成し、同自治区全域を領土とするイスラム国家『東トルキスタン』の建設を目的に民族独立運動を行っているといわれています。特に、1990年以降、同自治区では無差別殺傷事件、地元の政府・共産党要人の暗殺事件、行政府庁舎への襲撃などの凶悪事件が頻発するようになったといわれており、治安当局はこれらの組織を厳しく取り締まっています」ということである。ふらっとやってくる観光客は気づかないが、なにやらきな臭い過去のある土地なのである。



秋近しおとこ箒と吹かれ行く
(鰻鱈 2005.11.6)



22 ヤクブ・ベク

 19世紀後半の1860年代から1870年代にかけて、東トルキスタンから清の勢力を排除し、イスラム教徒中心の国家カシュガリアを築きあげたタジク人(ウズベク人ともいわれる)がいた。その名をヤクブ・ベクという。
 ヤクブ・ベクは、かつてのカシュガル支配者で清朝の軍勢との戦いに敗れたのちコーカンド(現在のウズベキスタン・フェルガーナ地方)に逃れたホージャ家に仕えていた。ヤクブ・ベグは少年時代には舞童だった。
 1860年代には東トルキスタンでムスリムが清朝の支配勢力に対して反乱を繰り返していた。東トルキスタンに帰るべき好機が到来たと、ホージャ家の軍勢がフェルガーナを出てタリム盆地に攻め込んだ。そのときヤクブ・ベクも軍人として遠征に加わった。1864年のことだった。
 カシュガルを中心にしたタリム盆地の西半分から清朝の軍勢を追い払い、ホージャ家はカシュガルの支配権を取り返した。しかし、まもなくヤクブ・ベクが主君であるホージャ家の当主から権力を奪取してしまった。ヤクブ・ベクは1970年代には清朝の軍勢を東トルキスタンの主要部から駆逐し、カシュガリアを完成させ、タリム盆地全体に君臨した。
 ヤクブ・ベクはオスマン帝国をカシュガリアの宗主国と認めることでアミール(君主)の称号をもらった。ヤクブ・ベクが支配するカシュガリアはロシアと英領インドから国家として承認された。イギリスはカシュガリアをロシアとの緩衝地帯にしようとして軍事的な援助を与えた。
 ヤクブ・ベクはイスラム教を大切にしたが、カシュガリアの統治にあたっては、その手法に野蛮さと冷血を見せたという。やがて、住民の心はヤクブ・ベクから離れていった。ヤクブ・ベクは1875年、左宗裳が清軍4万を引き連れて反撃してきたさい、あっけなく敗北してしまった。
 追いつめられたヤクブ・ベクは服毒自殺をしたとも、毒殺されたとも言われている。P. T. Etherton, In the Heart of Asia, Boston and New York, Houghton Mifflin, 1926によると、ヤクブ・ベグは同じつくりで見分けのつかない2つのコップにお茶を入れ、その1つに毒薬を注いで別室に行き、召使にお茶の1つを持ってくるように言いつけた。召使が運んできたそのお茶の1つを飲んで倒れたという。ヤクブ・ベクのハレムには300人の女性がいて、旅行するときはその中から4人を選んで連れて行くのが常だった。
 ヤクブ・ベクのカシュガリアの国家としての性格はなんだったのか? 東トルキスタンのイスラムと清朝の抗争に乗じて、国外勢力が入り込んで一時期権力を奪取しただけのことか。それとも、ウィグル人が清朝に対して反乱を起こし、ホージャ家ゆかりの軍人の指導の下で、満州族から東トルキスタンを取り返した輝かしい時期だったのか。



wake up from siesta
a young man hammers tinware
pounding like a time bell

(flores)

槌打つやブリキに宿る神の声
(鰻鱈 2005.11.12)


23 東トルキスタン共和国

 ヤクブ・ベクのカシュガリアのほか、タリム盆地周辺には「東トルキスタン・イスラム共和国」と「東トルキスタン共和国」が成立したことがある。
 東トルキスタン・イスラム共和国は1933年11月から1934年4月まで存在しただけの短命国家だった。東トルキスタンを支配していた漢族の中華民国新疆省政府に対する、ウィグル族などトルコ系ムスリムの独立運動の成果だった。首都はカシュガルだった。
 東トルキスタン共和国は第2次世界大戦中の1944年11月に臨時政府として成立、1946年まで存在した。首都は新疆北部のイリ(クルジャ)。東トルキスタン共和国の背後にはソ連の支持があった。
 王柯『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会、1995年)によると、東トルキスタン共和国の指導部は、イスラム国家をめざす宗教指導者やイスラム住民社会の上層部勢力と、ソ連に後押しされた親ソ派のウィグル人知識人、という2つの勢力で構成されていた。イスラム勢力は政治指導部に、親ソ派勢力は軍部に影響力を持っていた。ソ連の思惑は東トルキスタンの民族独立勢力を利用して、新疆にソ連の衛星国を作ることだった、と同書はいう。
 王柯によると、やがてソ連は外モンゴルの独立や中国東北地区でのソ連の利権など、より大きな利益と引き換えに、「新疆問題は中国の内政問題である」として東トルキスタンへの支援をとりやめた。
 支援を打ち切られ、やむなく東トルキスタン共和国は1946年、新疆省政府と妥協し、合同で新疆省連合政府を作った。この連合政府わずか1年で解体した。東トルキスタン共和国派の残党はふたたびイリに集結、イリ政府をつくり、中華民国新疆省政府への抵抗運動を始めた。
 中国共産党が中華人民共和国の成立を発表する1949年10月1日の直前、1949年8月14日、中国共産党は使節をクルジャに送り、旧東トルキスタン共和国指導者を北京に招き、新疆問題の解決をはかろうとした。
 1949年8月25日、ウィグル人、カザフ人、キルギス人の5人の指導者を乗せた飛行機がソ連領内で遭難し、旧東トルキスタン共和国指導部の主だった人々が消えた。この奇妙な偶然について、亡命ウィグル人の間では別の見方がある。5人の指導者はイリからカザフスタンの首都アルトマイ(当時ソ連邦の一部)へ向かい、そこからソ連の飛行機で北に行くよう指示を受けた。スターリンは5人のムスリム政治運動指導者をモスクワに誘拐した。ソ連が解体したとき、元KGB職員が出版した手記によると、5人はKGBの手で拷問を受け、その後殺害された、という。反中国の台湾のTaipei Timesがこの話をアンカラに亡命しているウィグル人歴史家から聞き、1999年10月12付紙面で記事にしたことがある。
 1949年9月になって、残った運動の指導者が中国共産党に対して、その指導に従うことを表明した。12月には中国人民解放軍がクルジャに進駐した。



民草の蝕まれたる心など
歯牙にもかけず時は流れる

(閑散人 2005.11.13)


24 9.11後の恐怖

 カシュガル市の中心部にある人民広場に巨大な毛沢東の像が建っている。カシュガルは清朝によって領土の一部に組み入れられ、そのあと中華人民共和国の一部としてひきつがれたのであるぞ、とこの像は言っている。Colin Thubron, “The Silk Road,” in Great Journey, BBC Books, 1989で、サブロンは、この像は二重にウィグル族をいらだたせている、と書いている。偶像崇拝を嫌うムスリムに偶像崇拝をおしつけているうえ、彼らの民族的心情を傷つけているからだ。この像を爆薬でふっとばそうという計画があったが、周囲の建物にも被害がおよぶので、とりやめになったそうだ。それではノコギリで切り倒してはどうだ、という話になったが、中に頑丈な鉄骨があるのでこれも中止ということになったそうである。
 2002年7月28日付のカナダの新聞『トロントスター』のカシュガル・ルポルタージュによると、テロリストの容疑をうけた複数のムスリムが毛沢東像のあるこの広場で見せしめのために開かれた裁判にひきだされて、死刑の判決を言い渡されたという。



every muslim must grasp the truth
political power grew out of a gun barrel
but no longer here in Kashgar

(flores)

 アムネスティー・インターナショナルによると、1997年1月から1999年4月までの間に新疆ウイグル自治区で210の死刑判決があり、190人に死刑が執行された。死刑囚はほとんどがウイグル族で、そのほとんどがテロあるいは国家反逆の罪によるものだった。
 2001年の9.11事件に乗じて、中国政府は東トルキスタン・イスラム運動、東トルキスタン解放組織、世界ウィグル青年代表大会、東トルキスタン情報センターの4組織をテロ組織に指定した。東トルキスタン・イスラム運動と東トルキスタン解放組織はアル・カーイダとつながりがあると断定した。
 中国政府は9.11事件以前、米国に率いられている反革命勢力がウィグル分離主義運動を支援していると非難していた。9.11事件後、米国政府はテロ対策のために中国の協力を必要とするようになった。そこで米国政府は中国政府のウィグル族に対する弾圧を人権問題ではなく、テロリスト対策であると見解を変えたのである。
 では、中国政府のウィグル・テロリズムの認識とはどのようなものか。
 米国の人権団体Human Right Watchの2005年のレポートは、中国政府が9.11事件に乗じて、新疆地区で宗教的・文化的メッセージを平和的に伝える人々さえもテロリストよばわりしていると非難した。
 Amnesty Internationalが2004年7月7日に発表した中国レポート “People’s Republic of China: Uighurs fleeing persecution as China wages its ‘war on terror’” が「精神的な形によるテロリズム」という中国政府の定義とその事例を紹介している。
 2003年1月、カシュガルの音楽堂で詩を朗読した詩人が逮捕された。「彼の詩は少数民族に対する政府の政策を攻撃したものである」と地区の共産党幹部は説明した。「詩人はウィグル族と漢族の一体性と調和を破壊しようとした。それは精神的な形によるテロリズムである」と党幹部は説明した。
 中国の西隣にはソ連の崩壊後に独立した中央アジアの国々がある。ウィグル族やトルコ系の民族が住み、多くはイスラム教徒である。新疆のイスラム教徒であるウィグル族が西隣のイスラム教徒・トルコ系民族と共鳴しあうことが、中国政府にとっては不安の種である。タクラマカン周辺には石油、天然ガスがある。中国政府は新疆地区の分離主義運動に神経質になり、分離主義のにおいのする人々をテロリストと断定して、力ずくでおさえこもうとしている。
 以上のような話を感じさせる風景は、カシュガルを通過するだけのツーリストにはなかなか見えてこない。バザールは平和ににぎわっており、お年寄りがのんびりとヨーグルトなどを食べている姿が見えるだけである。



老いの日々わが見しものはまぼろしか
年経ればデジャヴ酸っぱし縁の端

(鰻鱈 2005.11.14)


25 アイデンティティー

 中央アジアの人々のアイデンティティーを語るとき、よく引用されるのがロシアの歴史家ワシーリー・バルトリドの次のような言葉である。「中央アジアの定住民は自らをまずムスリムであると意識し,次いで特定の都市や地方の住民であることを意識する。特定の民族への帰属意識は,何の意味ももたない」。



十字路の塔の唐草われに問う
なんじ何者どこから来たか

(閑散人)

 第19回「ムスリム泥酔」でふれたJustin Jon Rudelson, Oasis Identities:Uyghur Nationalism Along China’s Silk Road, New York, Columbia University Press, 1997では、著者が1990年代にトゥルファンで聞き取り調査したウィグル族の自己認識のパターンが紹介されている。
 著者は聞き取り対象者を農業従事者、商業従事者、教員や公務員のようなインテリの3つの社会層に分けてその結果を比較している。
 農業従事者は自分自身のアイデンティティーを.爛好螢爿▲Εグルトルファン人ぢ震餌温餡斑羚颪琉谿ゥ肇襯碍鰐餌押△僚腓杷Ъ韻靴討い拭
 商業従事者は‖震餌温餡斑羚颪琉谿▲肇襯侫.鷽有ウィグルぅ爛好螢爿ゥ肇襯碍鰐餌押△僚腓納らを定義していた。
 インテリは.肇襯碍鰐餌沖▲Εグルトゥルファン人ぅ爛好螢爿ヂ震餌温餡斑羚颪琉谿、の順であった。
 同じウィグル族でも、社会階層によって自己認識が大きく異なることがわかった。著者によると、農業従事者ではムスリムとウィグルは同じもの、国際的なイスラムのコミュニティー「ウンマ」の一員という認識が強かった。
 商業従事者では、現在組み込まれている中国の社会の中で生きていこうとする傾向が強く見られた。
 農業従事者は伝統的なムスリムの自己認識を持ち続けていた。商業従事者は現実主義者だった。
 興味深いのは、インテリ層のアイデンティティーだった。彼らは自分たちを.肇襯碍鰐餌沖▲Εグルトゥルファン人の順に強く認識し、民族主義的な傾向を示した。特に、パミール高原を越えて西に広がるトルコ系民族への同一化と連帯を志向し、逆にッ羚顱↓ぅ爛好螢爐僚腓如異民族支配とイスラム教の保守性を拒否している。
 したがって、北京の中国政府にとっての懸念は、ムスリムの国際的な一体感と、新疆は発展したがその成果は中国政府を肥やしただけでウィグル人のものにはならなかった、という知識人の不満が、汎トルコ系民族運動と連動することである。こうした懸念を背景に、過敏になった北京のタリム盆地周縁の監視のやり方は強圧的である。
 中国は2005年3月、レビヤ・カディール(Rebiya Kadeer)という女性の出獄とアメリカへの出国を認めた。この女性は新疆のウィグル人実業家だったが、市販されている新聞のウィグル族についての記事の切抜きをアメリカに住む夫に送ったことが国家の安全を損なったととがめられ、1999年に8年の刑を受けていた。



我思うそれより先に帽子あり
(mandala 2005.11.15)


26 パミール

 空気の澄んだ日にはカシュガルの町から天山山脈やパミール高原の山が見えるそうである。とくに、パミール高原の中国側にあるコングール山が白い壁のように目の前に迫ってみえる。「第21回グレート・ゲーム」で紹介したLady Macartney, An English Lady in Chinese Turkistan, (reprint), Hong Kong, Oxford University Press, 1985は、そう書いている。マッカートニーさんは領事館の建物の屋根に登って見たのだそうだ。
 コングールやムスターグアタなどの万年雪をかぶった7000メートル級の峰を間近に見たければ、いまではほんの数時間、カシュガルカからカラコルム・ハイウェーを自動車でパキスタンとの国境へ向かって走るだけでよい。
 カシュガルとイスラマバードを結ぶパミール高原越えのカラコルム・ハイウェーは1960年代後半に工事が始まり、80年代初めに開通、まもなく一般に開放された。峻険な山の斜面を切り裂き、剥ぎ取って造った道路は、世界7不思議に次ぐ8番目の不思議であるとパキスタン人は自慢する(Ahman Hasan Dani, Human Record on Karakorum Highway, Lahore, San-e-Meel Publications,1995)。ところで、2005年10月のパキスタン北部地震で、カラコルム・ハイウェーはがけ崩れなどで道路が寸断され、ギルギットからパキスタン・中国国境のクンジェラブ峠まで封鎖されたという。その後、どうなっているのだろうか?
 パキスタン側に比べて見劣りするダート・ロードだったカラコルム・ハイウェーの中国側道路はここ数年で見違えるほど立派になった。その立派になった道路わきでキルギス人がお土産を売っていた。これもここ数年のこと。さらに検問所が新設され、一人一人が身分証明書をもって関所のような検問所を通らなければならなくなっていた。2001年の9.11事件以後、イスラム過激派の出入りを厳しくチェックするためにつくられたそうだ。



we are the Kirghiz
we sell junk to tourists
and ourselves are a tourist item

(flores)

 ムスターグアタ峰を水面に映す名所カラクリ湖には、以前にはなかった朱塗りの中国門がたてられていた。このあたり一体の観光事業に漢人が入り込んできたのであろう。
 パミールの空は墨を刷いたように黒く、カラクリ湖の面は暗かった。ムスターグアタの山容は雲に隠れ、霰が激しく地面と湖面をたたいた。



パミールを墨絵と化して霰打つ
(鰻鱈 2005.11.21)



 

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uyghur biz xinjiang biz ning ke
| | 2007/12/10 8:10 PM |
su mi ma sen ~~ ni hon go jiyo zo dewa ari masen ~~ kan koku nuku node uyghur rekishi o ni hon saite o mi ku happy shi mashi ta arigato gozayimas
| alim | 2007/11/07 11:48 PM |









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