CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< October 2018 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
PROFILE
OTHERS

Rengaworld

renga: a chain of poems
<< タリム周縁 その1 敦煌あたり | main | タリム周縁 その3 カシュガルあたり >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
タリム周縁 その2 西域南道
7 哈密瓜/コーグン

 8月から9月にかけてタリム盆地周辺のオアシスは果物の季節である。ブドウ、スイカ、メロン、ザクロ、モモ、ナシ……。この新鮮な果物目当てに観光客が集まる。また、お役人なども出張をつくってやってくる。だから、夏から秋にかけてオアシスでは会議や視察が増えるそうだ。
 この時期のオアシスを代表する果物のひとつが日本語でハミウリ、英語でHami melon、中国語で哈密瓜(Hami gua)、ウィグル語でコーグン(qoghun)である。むかし上海の果物屋で買って食べたことがあるが、それほどうまいとは感じなかった。しかし、乾燥地帯で食べるとさすがに美味である。やみつきになる人が多い、と聞いた。
 オアシスでHami guaというと、たまにムッとされることもあるそうだ。Qoghunと正しく呼ばなければならないのだ。Hami guaは漢族の呼び名で、ウィグルの呼び名ではないからだ。甘粛省人民出版社編『シルクロードの伝説』(サイマル出版会、1983年)によると、哈密瓜のいわれは次の通りである。清の時代に哈密の王が乾隆帝にqoghunを贈った。乾隆帝はこれを美味であるとほめ、家臣に果物の名を尋ねた。家臣は哈密王からの贈り物とだけしか知らなかった。そこで、とっさに「哈密瓜です」と答えたという。 バンコクを流れるチャオプラヤー河がメナム河とも呼ばれることになったのは、外国人がチャオプラヤー川の名を尋ねたら、タイ人が「メナム(河)だよ」と答えたためだ、という、ウソのような言い伝えがある。哈密瓜も似たような状況で命名され、漢語として定着した。
 ハミウリは哈密が原産地ではなく、東隣の鄯善だという説もある。コーグンについてはオアシスのあちこちが、うちこそ本場である、と名乗りをあげている。
 哈密瓜とqoghun。呼称をめぐるささやかな対立の根っこにある、ウィグル族の漢族に対する反感に、旅人はちらりと触れることになるのだ。この反感のもっと深いところにある押し殺したウィグルのressentimentを、やがて旅人はオアシスを巡るうちに知るのである。



オアシスのハミウリ食めば眼交に
安眠し寝さぬウィグルの顔


 さて、車は花土溝を出て、アスベスト鉱山をぬけて、新疆ウィグル自治区に入った。再びアルトゥン山脈を登り、標高4,000メートル弱の塔西峠を越えた。



 あとはダラダラの下り坂道。やがて国道315号は米蘭河の上流と平行して走る。ふと気がつくとい、車は干上がった河床に降りてその中を走っていた。かなり前に増水で川沿いの道路が流され、以後、河床が国道代わりに使われていたのだ。
 途中、運転手さんたちが持参のコーグンをふるまってくれた。運転手さんたちはウルムチから四輪駆動車を駆って、敦煌まで旅人を迎えに来てくれた。途中、哈密でハミウリを買って来たのだそうだ。
 前夜泊まった花土溝の石油招待所が持たせてくれナンとキュウリを昼時にまるかじりし、デザートに運転手さんが切り分けてくれたハミウリを食べた。



(閑散人 2005.10.23)



8 三十六団場

 オーレル・スタインが有翼天使の絵を見つけた米蘭遺跡を見に行く前の日は、「三十六団場」という風変わりな名の集落にある米蘭賓館という名の貧寒とした宿に泊まった。水もお湯も夕食後数時間しか出ないという時間給水湯の宿である。宿のまわりにはこれといって楽しそうな施設もなかった。しかし、米蘭遺跡が目と鼻の先にあり、足場としては最適な場所だった。午前中の涼しい時間帯に遺跡内を回ることができるのだ。
 団場というのは「新疆生産建設兵団の生産現場」という意味である。
 新疆生産建設兵団とは、新疆で50年以上の歴史を持つ風変わりな組織である。いってみれば現代の屯田兵集団である。その来歴を手短に紹介すると次のようになる。1954年、中国政府は新疆に駐屯していた17万人の兵隊を生産活動に振り向けるために、生産建設兵団を組織した。まもなく1961年には、イニンで暴動が起きソ連との国境が政情不安になったので、兵団は増強された。中国各地から漢族が集められ、兵団員として新疆に送り込まれた。1960年代半ばには、100万人を超える規模になった。中央政府は1975年に兵団の監督を手放し、自治区政府にゆだねた。しかし、1979年にはソ連がアフガニスタンに侵攻し、自治区ではムスリムの政治活動が活発になった。そこで、中央政府は再び、生産建設兵団のたずなを握ることにした。
 現在では、兵団の軍事色は薄まり、主たる目的は、新疆開発、農工業生産に絞られている。しかし、いざというときは、中ソ国境警備、ウィグル族の独立運動やイスラム過激派対策に、民兵として補助的軍事活動することになっている。
 兵団のエスニック構成は漢族が88パーセントをしめる。少数民族の目からみると、この組織は、まぎれもなくウィグル自治区を漢化するための先兵あるいは受け皿集団である。兵団は利用されていない沙漠を耕地に変えたと主張するが、地元のウィグル族は水利に恵まれた地域を奪い取ったとみなしている。
 新中国が成立した1949年、新疆ではウィグル族が全人口の76パーセントを占め、漢族は7パーセントに過ぎなかった。2002年ウィグル族は新疆の人口の45.6パーセント、漢族が39.8パーセントを占めるにいたった。漢族が新疆最大のエスニック・グループになるのも、それほど先のことではないだろう。
 兵団は中央政府と自治区政府の監督下に置かれてはいるが、独自の経済計画をたて活動している。組織は軍隊式で、現在、14師団158連隊で構成されている。農工業従事し、74,300平方キロの土地を持ち、家族を含めて公称250万人が加わり、年間の組織総生産額は269億元である。中国新建集団という巨大な企業グループと、機関紙『兵団新聞』のほか大学も2つ持っている。
 兵団の所在地は、旧ソ連邦の構成していたカザフスタンとの国境沿いに多い。次にウルムチの北方、ハミ、コルラ、コルラとチャルクリクを結ぶ国道218号沿いのタリム河流域、ムスリムが多いカシュガル、ホータン近くに多い。第36団がある辺りは甘粛、青海両省とチベット自治区に接し、国境がなく、イスラム教徒のウィグル族が多く住む地区だが、人口が希薄なため兵団は少ない。
 新疆生産建設兵団のホームページ『新緑洲』によると、別名「米蘭鎮」の三十六団場の総人口は約9,000人。4200平方キロの土地を持つ。2003年のデータでは、主要農作物は綿花、小麦、トウモロコシ、ナシ、リンゴ、モノ、ブドウ、ナツメなど。年間の穀物生産量は103トン、綿花2,584トン。くわえて、建材工場と石棉鉱を持っている。石綿鉱の年間生産量42,000トン。農工業の年間生産額は1億2,000万元である。水は米蘭河から引いている。(http://www.neooasis.com/)
 集落に入ると、総出で綿つみ作業をがんばろう、という横断幕が張られていた。なるほど、生産現場であった。



今日もまた綿摘み日和野良に出る
(mandala 2005.10.24)



9 米蘭遺跡

 「スタインが掘って、盗んでいったのです」
 米蘭地区文物局の案内人が米蘭の廃墟でそう言った。正確に言えば、文物局の人は漢語で話し、それをウィグル語、漢語、日本語を自在に使うウィグル人のガイドさんが、日本語に翻訳してくれたのだ。何を盗んだのか? いわずと知れた、あの有名な有翼天使が描かれた壁画である。
 Peter Hopkirk, Foreign Devils on the Silk Road, Oxford, Oxford University Press, 1980によると、1961年に北京・国立図書館発行の印刷の歴史に関する本には、868年に印刷された金剛経は世界最初の印刷された書物であるが、50年以上前にスタインというイギリス人によって盗まれた、と書いてあるそうだ。この金剛経は大英博物館にあり、グーテンベルクの聖書の近くに陳列してある、とホップカークは書いていた。
 「盗んだ、と彼(文物局)の人は言ったのですね」と、翻訳してくれたガイドさんに私は念をおした。
 「私は正確に翻訳しました。盗んだと言いました」と、ガイドさん。そして、数秒をおいてこう言った。
 「案内人のことは言わないのです」
 案内人がいなければスタインは米蘭遺跡にたどりつけなかっただろう。土地のボスの了解がなければ、発掘調査に必要な人員・資材を整えることもできなかっただろう。そもそも発掘そのものが不可能だったろう。では、誰が発掘と資料の国外持ち出しを認めたのか? 
 20世紀のはじめ、東トルキスタンの砂漠を掘り返して回ったスタイン、ペリオ、ルコックたちは、たしかに、現在の考古学調査の倫理からみれば、インディー・ジョーンズ並みのお行儀だった。一方、時代は清朝末期から辛亥革命、軍閥の地方割拠という混乱の時代であった。
 当時のシルクロード発掘について、漢族を中心にした中国政府の「泥棒行為」見解、資料を持ち帰った西洋諸国(日本を含む?)の「人類の遺産の救済保存」見解、この2つはよく紹介されるが、タリム盆地周辺のウィグル族の見解が表に出ることはない。探検隊を案内し、探検隊が壁画を切り取って、盗んでかえる手伝いをした人々の孫、ひ孫の世代はどう思っているのだろうか?
 スタインが東トルキスタンから持ち帰った資料は、有翼天使などの一部がデリーの国立博物館、大部分が大英博物館にある。大英博物館の中央アジア・セクションはスペースが手狭なため、スタイン・コレクションは大部分が箱詰めされたまま眠っている。「中国で掘り出しブルームズベリー(大英博物館があるロンドンの地区)に埋めた」とホップカークは先に紹介した本で皮肉っている。
 ホップカークによると、シルクロードから西洋や日本に運ばれた資料は悲惨な運命をたどった。ルコックがベルリンに持ち帰った文物の大分は第2次大戦のベルリン空襲で灰となった。大谷探検隊が日本に持ち帰った資料も、やがてその半分以上が日本の支配下にあった朝鮮半島や満州へ送られた。日本に残った資料の一部は民間のコレクターに流れた。その残りが、現在、東京の国立博物館東洋館にある。
 西洋の考古学泥棒がタリム盆地を徘徊し、盗掘が行われ、学術調査で掘り返され、農民は遺跡の日干しレンガを砕いて畑にいれると土壌が改良されると信じて遺跡を鍬で崩した。やがて、世の中が少し落ち着いてくると、観光資源になるとわかった遺跡を公園化にする工事が進められることになった。
 米蘭の廃墟は広大な砂漠のなかに日干しレンガの建物の残骸が点在するだけの干からびた空間である。観光客はなぜここに来るのか。オーレル・スタインが有翼天使の壁画を掘り出したというストゥーパのまえで、スタインと天使の残像を無邪気に確かめるためである。



砕け散る骨や胡楊や日に干され
(mandala 2005.10.25)



10 沙漠に葦を植える

 男と女が沙漠の太陽の下で乾いた砂のなかへ葦を植えていた。チャルクリクを出て、チェルチェンに向かう道端の沙漠のことだった。
 1992年に西域南道を車で走り、後に『タクラマカン周遊』(山と渓谷社、1999年)に旅行記を書いた金子民雄氏は、チェルチェンからチャルクリクに向かって走った。その感想は「だいたい広大な沙漠のなかに、道など造ることが横柄なのだ」。道路は南のアルトゥン山脈の雪解け水の洪水で削られ、北からは沙漠の砂が吹き寄せられて道路上に砂山をつくる。金子氏はずいぶん難儀をなさったらしい。
 『三蔵法師のシルクロード』(朝日新聞社、1999年)の本文執筆者・高橋徹氏は1998年にここを走っているが、それほど走行に難儀されたような記述はない。このころまでには、道路状況は相当改善されていたのだろう。
 2005年は大変楽なドライブだった。四輪駆動車など必要ないほど道路はよくなっていた。一部砂利道もあったが、それでも運転手が80キロ前後でとばすことができた。
 その道路端で収穫のあとの畑のようなものを見た。砂漠の中を走る道路沿いに畑? 道路沿いに干草の束のようなものが転がっていた。



この道や砂に抗いだが何処へ (鰻鱈)

 やがて、それは沙漠の砂止めだとわかった。砂のなかに枯れた葦を埋め込み、砂の移動を防ぐのである。10人ほどの男女が道路沿いの砂の中で葦の埋め込み作業をしていた。
 乾燥させて1メートルほどに切った葦を帯状に長く砂の上に撒いておく。葦の真ん中あたりにスコップの先をあてる。スコップを地面と直角になるようにたて、足をスコップにのせる。全体重をかけて葦を砂のなかに押し込む。作業はそれだけの単純なもの。
 しかし、道路沿いに10-20メートルの幅で葦を密植し、その砂止帯(業界用語で「草方格」という)を延々数百キロにわたって植え続けるとなると、これは相当な大工事である。しかも、機械を使わずスコップと人間の脚だけでそれをやっていた。葦は3年に1度ほどの間隔で植え替えるそうだ。
 機械を導入するよりも、労賃の方が安いのだ。オアシスの朝、道路を数人の男女が大きな箒で掃いていた。掃いていたというより、路上の砂をこっちからあっちへと移動させていた。オアシスの町には想像した以上に自動車と交通信号機が多かった。しかし、道路清掃車を見かけることはなかった。



道端で足棒にして葦踏めど
さほどオアシにならぬ悪しき世

(閑散人 2005.10.25)



11 Whose mummies? Whose land?

 かつての西域南道は敦煌から玉門関あるいは陽関に行き、そこから北緯40度線の少し北側を真西に向かって進み、楼蘭に至っていた。楼蘭からルートは南西に向かい、現在の海頭遺跡(かつてスタインはLK古城とよんだ)から、米蘭に出た。米蘭遺跡から西の遺跡群はおおむね現在の国道315号から北へ(砂漠側へ)50-100キロ寄ったあたりにあり、国道315号と平行している。この遺跡群をつなぐ沙漠のルートが昔の西域南道だった、という説もある。崑崙山脈から流れてくる水量が減ったため、現在のオアシス都市は、昔より南寄りの崑崙山脈側に移ったというわけだ。
 米蘭遺跡から有翼天使の壁画を持ち帰ったスタインは、一時期、現在のチャルクリク(若羌)こそが楼蘭王国の跡であるという説を唱えたことがあった。しかし、ヘディンが現在の楼蘭遺跡で「楼蘭」と書かれた資料を発見したことで、スタイン説は否定された。
 さて、チャルクリクから国道315号を西に走ると、瓦石峡遺跡の近くを抜け、チェルチェン(且末)に着く。
 チェルチェン近くにはチェルチェン古城と呼ばれる遺跡があった。
 チェルチェン遺跡はかつてのオアシス都市跡としてよりも、その周辺の土中から掘り出されたミイラであるCherchen Man(チェルチェン人)で有名になった。
 チェルチェン遺跡の入り口近くに倉庫風の建物が1つ建てられている。その内部では、発掘された当時のままの姿で、チェルチェン人の墓が公開されている。地下3メートルほどの深さに掘られた墓の中に、チェルチェン人の大人や子どものミイラ十数体があった。仰向けに寝た姿勢で、脚をくの字に立てていた。大人は大柄で、ミイラの中のもっとも大柄なものは身長が2メートルもあった。
 チェルチェン人のミイラはウルムチ博物館のミイラ館でも保管・展示されている。このミイラは放射性炭素による年代測定では紀元前11世紀ころの人だったされている。また、同じ地域で発見された他のミイラの中には、紀元前2000年から3000年にさかのぼるものもあったそうだ。
 このミイラたちは中国政府に恐怖感を与えた。政治的な意味で……。
 ヘザー・プリングル『ミイラはなぜ魅力的か』(早川書房、2002年)はその理由をこう説明している。
 ウィグル族はタリム盆地で見つかるミイラに強い関心を持っている。なぜなら、ウィグル族は紀元後にモンゴル西部の平原からタリム盆地に移住してきたという歴史家たちの見解に対し、ウィグル族の指導者は彼らの祖先は紀元前からタリム盆地のオアシスで農業を営んで暮らしてきたと主張しているからだ。そこで、紀元前のミイラと自分たちのつながりに強い関心を持っている。ミイラたちと現代のウィグル族の間になんらかのつながりを求めている。彼らはこの土地の先住民であり、漢族は先住民の土地への侵入者であるという主張を成立させたいと願っている。
 もし、タリム盆地で発見されているミイラと現在のウィグル族の間になんらかの人種的はつながりが認められた場合、ウィグル人の民族意識は燃えあがるだろう。
 そこで、チェルチェン人などタリム盆地のミイラは、中国政府にとって微妙な問題になった。チェルチェン人は1970年代末から発掘されている。だが、中国政府はDNAテストをしぶったといわれる。万一、チェルチェン人と現代のウィグル人の遺伝子に何らかのつながりが認められた場合、その政治的反響の大きさを恐れたのである。タリム盆地地下に眠るミイラはわれらのもの、ミイラが眠るその土地の底にある油田もわれらのもの、とウィグル族が本気で主張し始めたらどうなるか。それが不安だったのである。



underneath sleep Cherchen mummies
let them keep sleeping here
do not shake them awake
not to leave them set fire
on the Tarim oilfields

(flores 2005.10.29)



12 沙漠公路

 タクラマカン沙漠の中央部あたりをY字型の沙漠横断道路が南北に走っている。沙漠公路である。タリム盆地北辺を走る国道314号のクチャ(庫車)とコルラ(庫尓勒)の中間あたりから、タクラマカン沙漠の真ん中の塔中で沙漠公路は二手に別れる。一方は南東に走りチェルチェン近くで国道315号につながる。いまひとつはまっすぐ南にむかい、ニヤ(民豊)の近くで国道315号に出る。



 この沙漠道路はタクラマカン沙漠の中に有望な油田が見つかったため建設された。流砂の中に舗装道路を敷く。それも石油基地に必要な物資を輸送する大型トラックの使用に耐えるような丈夫な路を建設する。砂漠の砂を凝固剤で固めて路盤をつくり、その上をアスファルト舗装した。道路わきには第10回で紹介した草方格で砂止めを作った。



 この道路をチェルチェンから塔中を経て二ヤまでドライブした。快適だった。
 沙漠公路はオイル・ロードである。急成長を続ける中国経済を今後も持続させるためには、エネルギーの安定供給が必要だ。つまり石油の確保である。中国経済の規模が小さかったころ、中国は原油の輸出国だった。1990年代の中ごろから中国は原油の輸入国となった。2010年には原油の半分を海外に依存するようになるといわれている。中国の石油外交は熱を帯び、すでにアフリカの油田をめぐって中国は米国と激しい獲得争いを繰りひろげている。
 一方で、国内の油田確保も重要な課題になっている。
 中国最大の油田である黒龍江省の大慶油田は、国内の年間生産量の3分の1を占める大油田だが、最近では産油量が頭打だ。
 中国政府は新疆に期待をかける。タリム、ジュンガル、トゥルファン・ハミの三大油田地帯を持つ新疆は、中国では第4位の石油供給地だ。原油生産量は年110万トンのペースで上昇している。伸び率は国内第1位。戦略的な地域である。その中で、埋蔵量ではタクラマカン沙漠のあるタリム盆地が最有力視されている。
 とはいえ、話はいつまでもバラ色というわけにはいかない。最近の報道では、タリム盆地の原油は生産コストが高くつき、エネルギー確保を目指す中国政府の政策ベースではともかく、商売が基本の民間ベースでは割に合わないとして、外国資本が新規参入を手控えている。中国政府の期待通りに進んでいない面もあるようだ。
 油田あってこそできた道路である。油田が消えれば、ふたたび沙漠の砂の中に埋もれることも、また、ありうるのだろう。



一筋に沙漠貫く蜃気楼
(mandala 2005.10.29)


13 塔中

 沙漠公路が南へ向かって二手に分かれる分岐点が塔中である。塔中は新しく作られた地名だ。タクラマカンを漢字で書くと塔克拉満瑪干となる。またタリムは塔里木である。タクラマカン沙漠あるいはタリム盆地の真ん中という意味でつけた、と聞いた。塔中には給油所がありにぎわっていた。給油所の周辺にはレストラン街もできていた。それほどシャレたものではなかったが……。



 沙漠の真ん中で石油を汲み出している塔中油田は、塔中ジャンクションから右手の道を南下してしばらくのところにある。
 沙漠公路のドライブはが楽しい。飽き飽きするほど沙漠をみることができる。砂丘に描かれた風紋が美しい。
 チェルチェン付近から最も新しい沙漠公路を北に塔中へ向かい、塔中で反転してニヤに向かう沙漠公路を走った。
 道路左右にタマリスクが植えられていた。給水のための黒いゴムホースが延々と敷かれていた。砂止めのために植樹しているのだ。ゴムホースの穴から一定時間ごとに出る水が植物を養う。
 この給水のために道路沿い4キロごとに給水所を建てている。給水所では地下水を汲みあげて、パイプに流している。水が流れているかどうかを常時確認するために、給水所に職員を駐在させている。タクラマカン沙漠の真ん中の道路沿いで、パイプを点検しながら歩いている職員の姿が見えた。
 石油が出たせいで、小規模ながらタクラマカン沙漠が生活の場へと変わっている。



わが道に千代に八千代に散水す
グリーンベルトが砂に勝つまで

(閑散人 2005.10.30)



14 ニヤ

 国道315号沿いの現代のオアシス町ニヤ(民豊)は人口3万の物静かな町である。



オアシスや育つ若葉のかぐわしく
(鰻鱈)

 オーレル・スタインが1901年に大量のカロシュティー文書を収集したニヤ遺跡は、ここから100キロ以上も離れている。ニヤ遺跡を訪れるには、いまでも砂漠専用車、宿泊用テント、ガイド、キャラバン要員などが必要になる。
 ニヤ遺跡についてはスタインの著書『砂に埋もれたホータンの廃墟』(白水社、1999年)や『中央アジア踏査記』(白水社、1966年)に詳しい。『中央アジア踏査記』によると、スタインの一行はニヤ遺跡で悪臭に耐えながら発掘をした。納屋か家畜小屋が建っていたらしい地面を掘った。「17世紀間も埋もれていながらいまなお発散する痛烈な臭気は、強い東風にあおられて二重に耐えがたいものになっていた。細かいほこりや、死んだ微生物や何かが、目や喉や鼻にはいり込んだからだ」とスタインは書いた。
 同じ本の中でスタインは1907年に米蘭の廃墟を発掘したときの臭いについても書いている。米蘭の廃墟の中の要塞を発掘したときの模様である。この要塞は一時期チベットの駐屯兵が暮らしていた。想像もつかないような汚物の中からチベット語でかかれた木片や紙の文書が出てきたという。当時のチベット兵はごみに無関心だったらしい。住んでいる部屋の中にごみを捨て、ごみが居室を埋めると別の部屋に移った。ごみは天井までの高さに達していたという。
 そこから先はスタインの「鼻自慢」だ。古代のごみ捨て場を発掘することにかけては豊富な経験を持ち、ごみ捨て場の臭いをかぎ分けることができる、とスタインは自慢げに書いている。スタインによれば、「その純然たる汚物の濃度と、歳月を経て変わらぬ臭気の強さから、チベットの兵士らの豊かな『廃棄物』を、常に第一位に押したいと思う」。スタインは1908年、ホータンのマザール・ターグの丘で要塞跡を発掘したとき、チベット兵が駐屯した場所であると言い当てた。「まだはっきりした考古学上の証拠物が出ないのに、ごみのにおいでかぎあてたのだ」。スタイン、得意満面の回想である。
 タリム盆地の周縁をめぐるドライブでは公衆トイレ、道路端の飯屋のトイレ、青空トイレ、この3つのお世話になった。青空トイレは実にすがすがしい。あとの2種類のトイレに入ったときは、たいてい、上記のスタインの記述を思い出したものだ。スタインがかいだ悪臭と、いま私がかいでいる悪臭では、どちらがより強烈なのだろうか、と。
 2008年は北京オリンピックだ。北京市は、汚く、臭く、そのうえ仕切りがなく隣人同士お互いがまる見えのオープンな公厠(コンチェ、公共トイレ)の改善に直面している。2004年から8,000万元をかけて北京市内の公共トイレを改善する、という記事を読んだことがある。



東風吹かばみやび運べよ九重の
雲上人の薫る公厠(コンチェ)
(閑散人 2005.10.30)



15 ブールヴァール

 西域南道で砂丘の脇のタマリスク、道路端の胡楊、砂ナツメなど極度の乾燥にも耐える強い木をたくさん見た。必死に生きているという姿が眺めている方の緊張感をよび起こした。
 そうした沙漠の風景のなかで、ほっとする気分になれるのは、なんといってもオアシスのポプラ並木だろう。
 沙漠の道路を車で走っていると、果てしない砂の向こうに小さな黒い点が見えてくる。近づくにつれて、その点は小さな緑の広がりになってゆく。オアシスである。
 オアシスには立派なポプラ並木がある。ポプラの木は道路沿いにたいてい5列で植えられている。ポプラの列を重ねておかないと砂防林として十分な役目が果たせないからだ。
 このポプラ並木をトコトコ進むロバの荷車という構図が観光客の固定観念である。
 ニヤからホータン(和田)の中間にあるケリヤ(于田)の近くの小さな集落になかなか心地よいブールヴァールがあった。その並木道をオアシスのおばあさん、おばさん、娘さん、おじいさん、おじさん、お兄さん、子どもが、歩いて1軒の家にあつまっていた。
 村の結婚式だった。ウィグル人のガイドさんが「珍しいから見ていきましょう」と、その家の主に見学を申し込んでくれた。結局、観光客たちは飛び入りの珍客として、結婚式の場に招き入れられ、スイカとポロで丁重なもてなしを受けることになった。



なに語るそぞろ歩きの並木道
木洩れ日やポプラ並木の立ち話

(mandala)

 1922年から24年にかけて、カシュガル駐在のイギリス総領事だったスクラインの著書、C. P. Skrine, Chinese Central Asia, London, Methuen, 1926によると、1920年代の西域南道では、ケリヤはcul de sac(袋小路)でUltima Thule(地の果て)だった。カシュガルからケリヤまでは人の流れがあったが、それはケリヤでぱたりと途絶えてしまっていた。ケリヤから東は、ニヤ、チェルチェン、チャルクリクのオアシスを例外として、ケリヤから敦煌までの860マイルは沙漠以外に何もなかった。ケリヤから敦煌までの旅は、特にチャルクリクから敦煌までの450マイルの旅は、飲料水を氷の形で持ち運びできる冬季にだけ可能であった。
 ケリヤをすぎてホータンに向かう国道315号沿いの荒地の中に標識が見えた。「光ケーブルがここを通っている。3メートル以内土取り厳禁」と標識に書かれていた。
 


 観光客はタリム盆地に来て、ヘディンだの、スタインだの、ルコックだの、大谷探検隊だのと、古本が醸し出す古臭いファンタジーの沙漠を、いまだにさまよっている。しかし、沙漠公路がタクラマカンを貫き、タリム盆地の周辺には、デジタル・マイクロウェーブ幹線、光ケーブル幹線が張り巡らされた。通信ケーブルは蘭州を経て西安にいたっている。デジタル通信網、マルチメディア通信網が出来上がり、IP広帯域ネットワークの建設に取りかかっている。移動通信ネットワークは新疆ウィグル自治区全域をカバーしている。
 旅人を運ぶ車のドライバーは沙漠の向こうの本社の指示を携帯電話で受けていた。

(2005.10.31)



16 デフォルマシオン/弟よ

 ホータン市の中心部にある広場に、あごひげをはやした年配のウィグル人男性と毛沢東が親しげに語り合っている銅像がたっていた。その銅像の台座に「ホータン市は新疆ウィグル自治区の50周年をお祝いする」と書かれた大看板が取りつけてあった。1955年10月1日、新疆ウィグル自治区政府が成立した。それから半世紀がたったのである。
 新疆ウィグル自治区が成立してしばらくたったころ、あごひげの老人(申し訳ないが名前を忘れてしまった)が「昔に比べるとずいぶん暮らしが楽になった」と地域の指導者に話したところ、「毛沢東のおかげだよ」という答えが返ってきた。
 老人は、それでは毛沢東とかいう人にお礼を言わねばなるまい、と言った。その話が地区の共産党委員会、ウルムチにある新疆ウィグル自治区党委員会、北京の党中央へとのぼっていった。老人はうやうやしく北京に招かれ、毛沢東と会見することになった。
 ホータン市の銅像は、以上のような政治的おとぎ話を形にしたものである。異民族間の相互理解と和解、相互協力と尊敬などをうたいあげる政治的メッセージである。同時に、政治的メッセージを臆面もなく町に飾るということは、とりもなおさず、現実はそれほど楽観的ではないということでもある。



listen!
if those above lead those below
and those below follow those above
then brother will not war with brother

(flores)

 この銅像を見た数日後、街道の飯屋で毛沢東と白いあごひげの老人の会見写真が目にとまった。



 この写真と銅像を見比べることで、ホータンの銅像に込められた、いま1つのメッセージがはっきりとしてきた。
 写真で見る限り、毛沢東とウィグル人の老人は、背丈ではほとんど変わりない。人民服の毛沢東はやや肥満気味で胴回りが太い。ウィグル人は引き締まったスリムな体型のようである。
 一方、ホータンの銅像では、毛沢東とウィグル人の体の大きさがデフォルメされている。毛沢東は大きく、ウィグル人は小さく。毛沢東がウィグルの老人を上からやさしく見下ろしているように作られている。
 これが漢民族中心の共産党指導部がウィグル民族に伝えようとしたメッセージだった。
 ウィグル人にとってこの銅像は、太平洋戦争後、占領軍が撮影し配信した1枚の写真が当時の日本人に与えた衝撃と同じような、みじめさ、敗北感、いらだち、憤激を感じさせるものだろう。



(2005.10.31)



17 夏の離宮

 ホータン(和田)はそのむかし于闐国とよばれていた。そのころの王国の夏の離宮が、ホータンの南の郊外の白玉河沿いにある。ホータンの北方にはかの有名なダンダン・ウイリクがあるが、そう簡単に行けるところではない。そこで、一般観光客はてっとりばやい于闐国の夏の離宮(現在ではマリクワット遺跡とよばれている)へ出かけ、旅情を満喫することになる。
 夏の離宮へ行くには、ホータン市内から自動車でマリクワット遺跡近くのウィグル人の集落、マリクワット村まで行く。そこから村人が運行するロバの荷車に乗ることになる。遺跡まで歩いていけない距離ではないが、村人のロバ車に乗るのが仁義になっている。
 ロバ車はマリクワット村の女たちが御者をつとめる。御者などいなくてもロバは勝手に遺跡のほうへ歩いてゆくので、女たちやその子どもたちはロバ車そっちのけで観光客にお土産を売っている。
 御者の中にでっかいおなかの女の人がいた。ウィグル人のガイドが心配して聞いたところ、あと数週間で出産予定日だという話だった。途上国で観光客に群がるお土産売りはいろいろ見たが、臨月の御者にはさすがにたまげた。



砂をかむ貧の轍の深さかな
赤貧や鞭くれてやる驢馬の尻

(鰻鱈)

 中国では都市は農村より豊かである。都市と農村の所得格差は開く一方で、2004年には3.2倍になったそうだ。都市部には漢族が多く、少数民族はたいてい農村に住んでいる。中国では高所得層の上位20パーセントが消費の半分をしめ、低所得層の下位20パーセントは5パーセント以下である。中国のジニ係数は2000年に0.458となり、所得分配の不平等はアメリカ並みの水準に悪化した。日本やカナダ、西欧諸国より不平等がひどい。貧富の差が激しいといわれるフィリピンの水準に近い。開放経済が作り出した陰の部分である。国連開発計画の資料によると、1980年の中国の1人当たりGDPは世界129ヵ国中124位だったが、人間開発指数(HDI)は113ヵ国中74位だった。GDPに比べ医療・教育などの行政サービスは、相対的にではあるが充実していた。2002年になると、1人当たりGDPが161ヵ国中90位と上昇したが、HDIは177ヵ国中94位にとどまった。
 タリム盆地では石油や天然ガスが新しい雇用を生んでいる。だが、そこで働く人のほとんどが漢族である。ウィグル族には漢語に不自由な人や、必要な技術をもたない人がいる。したがってウィグル族はタリムの石油がもたらす恩恵を受ける機会が少ない。
 さらに、高度成長と中国流の市場経済全盛の現在、いま1つの陰の部分である腐敗が横行している。ホータン地区のある貧しい村に国連が170万ドルを援助したことがあった。その援助金が北京、ウルムチを経由して、地元の貧困援助の窓口に届いたときは、14万5,000ドルに目減りしていた。だが、その残金も地元役人が横領した。貧しい農村には何も届かなかった。
 以上の話は、ニューヨーク在住の台湾系ジャーナリストが、ウルムチからトルコのイスタンブールに脱出したウィグル人の元援助関係者から1999年ごろ聞いた話を、Taipei Timesに寄稿したものである。一般的に言えば、それなりに割引して読むべきものであろう。
 とはいえ、東南アジアの政治観察をメシの種にしているこのエッセイの筆者には、このての援助抜き取りの話はフィールドでよく聞かされたおなじみの話題である。また、最近の中国では腐敗のすさまじい横行が報道されている。1990年代後半の3年間のGDP成長率は年平均9.7パーセントだったが、腐敗関連の事件で摘発された課長クラス以上の官僚の増加率は年平均14.6パーセントで、GDP増加率を上回った。というわけで、「反中国宣伝」と頭から否定する気にもなれないのである。

(2005.11.2)



18 白玉河

 ホータンは中国人が珍重する軟玉の産地である。ホータンの玉がさかんに長安に運ばれるようになったのは、漢の武帝の西域遠征のころからだといわれている。敦煌西の玉門関はこのころにつくられた。
 ホータンの街中には玉を売る店が多い。そうした店の1軒に入った。壁に額がかけてあった。「観海聴濤」と大書してあった。中央アジアの砂漠地帯で、ふと潮騒が響くような錯覚におそわれた。だが、ここにあるのは沙の海だけである。
 崑崙の雪解け水が川となってオアシスを潤してきた。その雪解け水がホータン名物のイチジク、クルミなどを育てた。ホータンの農民の朝ごはんの定番はスイカとナンだそうだ。そうした質素な食生活でも元気に暮らせるのは、ひとえに崑崙の水のおかげだと彼らは考えている。崑崙から流れてくる川の水は「生きた水」、井戸や池からくみ出した水は「死んだ水」と彼らはいう。
 崑崙からホータンへと流れ下ってくる川は2本。ホータン市の西側にカラカーシー河(墨玉河)が流れ、東側にはユルンカーシー河(白玉河)が流れる。この2本の川はタクラマカン砂漠に流れ込み、やがて合流してホータン河になる。白玉河と墨玉河の河床から玉がとれる。



 かつては河を歩いて玉を拾っていたが、さすがに、何千年も拾い続けると玉が消えてしまった。そこで、資本を持つ人々が河にショベルカーを持ち込み始めたのである。
 白玉河では、ショベルカーがうなりをあげて河床を掘り返していた。流れる水は生きた水。生きた水を運ぶ川を無残なまでに壊しつつ、たしかに、中国経済は荒々しく躍動している。



玉を掘れ河床破ってわれ先に
あとは野となれボタ山となれ

(閑散人 2005.11.3)



19 ムスリム泥酔

 ホータンのバザール近く、モスクに向かい合った歩道で、年配のウィグル人男性がへべれけになって眠っていた。

 李賀の詩の一節、

  況してや是れ青春日将に暮れんとす
  桃花乱落して紅雨の如し
  君に勧む終日酩酊して酔え

の風情からははるかに遠いものの、憂き世を忘れて気持ちよさそうに眠っていた。



なぜ飲んだ? 聞いてどうするおたんちん
(鰻鱈)

 ムスリムは酒を飲まない。ウィグルはムスリムである。ゆえに、ウィグルは酒を飲まない。そのような粗雑な三段論法はウィグルの男には成立しない。ムスリムは酒を飲むこと以外にも、博打をすること、豚肉を食べることもしないとされている。しかしながらウィグルの男が守っているタブーは豚肉を食べないことだけである(ウィグル人も人目につかないところでは豚肉を食っている、と馬鹿にする漢人もいる)。
 コーランは飲酒を禁じているか? はっきりと「お酒飲むな」といっている文章はないのだそうだ。むしろ「永遠の少年たちが……酒杯と、水差しと、泉から汲んだ満杯の杯などを献上して回る。頭痛を訴えることもなく、泥酔することもない。彼らは、好みどおりの果物を選び、鶏肉も望みどおりのものを得る。目の大きな色白の乙女もいる。彼女たちは、まるで秘められた真珠のよう」(『コーラン』世界の名著・中央公論社から)のように飲酒を許容している。
 モスクの前のウィグル人はそんな夢でも見ていたのだろうか。
 ウィグルの男はなぜ深酒をするのか?
 ウルムチのような大都会では漢族の人口がウィグル族を上回っている。政治・行政・経済で圧倒的な力を行使しているのは漢族だ。漢族はウィグル族に次のようなレッテルを張る。ウィグル族は古臭い伝統やイスラム教にしがみつき、後進的で封建的、怠け者のうえに、社会的・政治的には未熟だ。(ただし、漢族の男は美人の評判が高いウィグルの娘にあこがれるが、娘を漢人と結婚させたがらないウィグル人の親に怒っている。ウィグルの娘はウィグルの男より漢族の男と結婚したがっているのに。だって、漢人の方が知的で、深酒もせず、妻を殴らないのだから、というわけだ。一方、かげでは漢族の男はウィグルの女は尻軽だ、とささやいてもいる)。
 都会に住むウィグル族はそうした漢族の誇張された偏見の中で生活している。偏見にまったく根拠がないわけではない点がウィグル族にはつらい。権力をもつ側の漢族に誇張された偏見を修正しようとする気がないのは、もっとつらい。そのことで、ウィグル人の自尊心は傷つけられ、フラストレーションと怒りがたまる。
 ウィグル族男性のアルコール消費量はどんどん増えているそうだ。消費量をおしあげているのは、実は農民ではなく、都市部で働くホワイトカラーや大学生である。彼らは毎日、漢人と接触することで心を傷つけられ、夕暮れとともに酒を飲んで荒れる。その代表的な例が政府機関で働くウィグル人のお役人だといわれている。以上は、Justin Jon Rudelson, Oasis Identities:Uyghur Nationalism Along China’s Silk Road, New York, Columbia University Press, 1997からの受け売り。

(2005.11.3)










| - | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
スポンサーサイト
| - | 22:10 | - | - |









http://rengabilingua.jugem.jp/trackback/10