renga: a chain of poems
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賦何色連歌 四折表

       
    
     しがらみの世を知らぬげに鴎ども    梢風
       
       国をはるかに常夏の月       千草
   
     召しかへす便りこがれて秋をまつ    楽歳
    
       頼めの里といふは何処ぞ      蘭舎
   
     筒井筒蹴鞠もすなる女の童       千草
     
       およびを漬ける清水きよらに    梢風
     
     つれづれと籠り居たるをとがむれば   蘭舎

       ほつりほつりと語る行く末     楽歳

     鍬を持つ力も息の戻るまで       梢風

       地の底ひよりこみあぐるもの    千草

     たをやめの柩みおくる霜の道      楽歳

       千束の文を君は残せし       蘭舎

     夜もすがら日はひもすがら読みつぎて   千草
     

   

      
      求めのあらば物語など         梢風
      うみ風にのる鳥聲もあり        〃
      市の売り聲いつか途絶へぬ       〃

      



      いよいよ名残の裏8句を残すだけになりました。
      第1句、蘭舎さま、どうぞ。

なお、名残の裏は元の「連歌」ブログに戻ります。

http://rengarenga.blog.so-net.ne.jp/

へどうぞ。





      <進行表はこちらからご覧ください>
 


   
   
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灌頂芳香 大江戸線一寺一句
大江戸線路線図 (国土交通省)



30.何となう死に来た世の惜まるゝ    漱石
    鐘の音のほそき唸りや揺らぐ春    鰻鱈

都営地下鉄大江戸線を若松河田駅で下りる。



地上に出る最後のエスカレーターを上りきったあたりにこのような張り紙があった。遅い。エレベーターにこれから乗るというあたりに張っておかないと間に合わない。

夏目坂に出る。夏目漱石の生まれたのがこのあたり。漱石の父親が界隈の名主だったので、夏目坂の名がついたという。



漱石の匂いなど皆無の、どうということのないゆるゆるとした坂道である。



ここ誓閑寺がある。この寺もまたどうということもない。新宿区観光協会が
夏目漱石は自宅すぐ近くの誓閑寺の鐘の音について、随筆『硝子戸の中』でふれています。その「梵鐘」(区指定文化財)は、今も境内に残されています。区内最古の梵鐘といわれ、「荏原郡」の在銘と寄進者名が刻まれていることから、天和2年(1682年)頃、すでに豊島郡になっていたこの地が、いまだ旧郡名の「荏原郡」とよばれていたことがわかります

と案内しているように、漱石が『硝子戸の中』でこの寺の鐘に言及した、というだけで界隈の名所になっている、ことになっている。もってまわった言い方をしたのは理由がある。まず、寺は夏目坂からちょっと奥まったところにあって探しにくく、通りのコンビニで「誓閑寺はどこでしょう」と訪ねたが、店員さんはあいにくご存じなかったからだ。誓閑寺はそのコンビニから50メートルも離れていないところにあった。



そんな寺である。では、漱石はその寺の鐘についてどんなことを書いたのか。引用する。

……半町程先に西閑寺(誓閑寺)といふ寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後ろは、深い竹藪で一面に掩はれてゐるので、中に何んなものがあるか通りからは全く見えなかったが、其奥でする朝晩の御勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残ってゐる。ことに霧の多い秋から木枯らしの吹く冬に掛けて、カンカン鳴となる西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むやうに小さい私の気分を寒くした。


世の中、えてしてこんなものである。漱石が子どものころ冷え冷えとした気持ちで聞いたのは「鐘」ではなく「鉦」の音だったのだ。鐘は大型で撞く金属打楽器であるが、鉦は小型で叩くものである。どこでどうこんがらがったものか?

若松河田駅の隣の東新宿、新宿西口あたりにはこれといって気をひくお寺がないので、灌頂芳香(環状芳香)都営大江戸線お寺めぐりはこれでおしまい。ご愛読を感謝。

(2007.2.26)

                   ――完――





29.命かけ比翼の鳥を演じおり

まもなく用あって鳥インフルエンザで死者が出ているインドネシアへ行く。あそこのサテ・アヤムやアヤム・ゴレンは好物だ。とはいえ、今回はむやみな買い食いは慎むことにしよう。

テレビも新聞も鳥インフルエンザがやがてパンデミックになるといっている。20世紀はじめ「スペイン風邪」とよばれたインフルエンザが世界を襲った。世界中で死者推定2,500万人、日本の死者は38万人余。スペイン風邪のウイルスももともとは鳥インフルエンザ・ウィルスだった。



さて、このスペイン風邪で東京では1918年11月に島村抱月という新劇運動指導者が死んでいる。抱月と新劇の師弟関係、芸術座の共同設立者、愛人関係にあった松井須磨子という役者が抱月の死に落胆して1919年1月に後追い自殺した。間接的なインフルエンザの犠牲者だ。牛込の芸術倶楽部で首をつった。



東京新聞の前身『都新聞』よると、赤い帯をつかって首をつったという。赤というのが役者の色気だ。

都新聞によると、須磨子の遺体は遺言の希望によってちょうど2ヵ月前に抱月を荼毘に付した同じ釜に入れられた。だが、そこまで。



須磨子の遺言状にあったいまひとつの希望である抱月と同じ墓に入れて欲しいという願いはさすがにかなえられなかった。抱月の墓は雑司が谷霊園につくられ(のちに島根県の郷里の寺に分骨)、須磨子の骨は郷里の信州松代に埋められたが、後に分骨、新宿区弁天町の多聞院に墓が作られた。都営地下鉄牛込柳町駅からちょっと歩いたところにある。




28.若ければ多少の無茶も神楽坂

都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅から毘沙門天の善国寺へ行く。この界隈のランドマークである。



神楽坂は江戸時代からの繁華街で戦前までは江戸・東京花柳界の中心だった、そうだ。神楽坂組合(見番)のホームページによると、2006年2月の組合員は料亭9軒、芸妓30人だった。最盛期の昭和12年ごろには料亭150軒、芸妓600人を数えたという。



第二次大戦で焼け野原になった。昭和30年代には料亭80軒、芸妓200人というところまで盛り返した。しかし、その後さびれていった。



昭和30年代といえば、神楽坂はん子、同浮子といった芸者シンガーが世に出たころである。まだ30代の野心満々の代議士カクさんは鼻歌まじりに足しげく神楽坂界隈を遊弋していた。栴檀は双葉より芳しというか、角栄氏は代議士になってすぐ、炭鉱国家管理法案をめぐって収賄容疑で検察に逮捕されている(このときは無罪)。


  江戸名所図会 神楽坂

その神楽坂で踊りの上手な芸妓を愛し、身請けして愛人として囲い、子どもを生ませ、認知した。ゴシップ好きの方は、辻和子『熱情―田中角栄をとりこにした芸者』講談社、2004年、をどうぞ。





27.落月や痩せ衰えし峯の影

こんにゃく閻魔から伝通院へ向かう。途中、信濃・善光寺東京出張所のようなお寺の前を通った。



しばらくゆくと伝通院だ。随筆『伝通院』の中で、永井荷風はこのお寺をパリのノートルダム寺院と比べて遜色がないとほめている。ただし、『伝通院』が書かれたのは明治の末期。江戸期から明治期にかけての伝通院の殷賑は遠くなった。いまでは、荷風のほめ言葉は、このあたりで生まれ育った彼の地元びいきの思い入れとしか聞こえない。どうということのないお寺になった。



ここには徳川家康の母親や孫娘その他の身寄りの墓がある。というわけで、寺格があがった。墓地には生前には著名人としてもてはやされた人が何人か眠っている。墓に入るようになっても著名人はサロン好きとみえる。

そうした墓のなかに、眠狂四郎のファンタジーをつくりあげた柴田錬三郎の墓があると案内の立て札にあった。ところがその墓がなかなか見つからない。お墓参りに来ていた人にたずねたら、その墓のご近所で、円い石の玉のある墓とのこと。

円月殺法の生みの親の戒名は、蒼岳院殿萬誉円月錬哲大居士という。墓にはこの戒名もなく、柴田錬三郎の名もない。丸い石の玉の横に、階段状ピラミッドのように積み上げられた墓石があった。齋藤家之墓とだけ刻まれていた。齋藤は妻方の姓である。どうも生前「無頼」で稼いだ人の墓らしくない行儀良さだ。



伝通院の桜、今年は早いそうである。




26.目閉じてはじめて見えるものもある

都営地下鉄大江戸線春日駅で下車、源覚寺ことこんにゃく閻魔へ行く。



お寺の寺務所はビルの中におさまっていた。ビルのてっぺんに「源覚寺」と看板が掲げられていた。閻魔堂は建物と建物の間に窮屈そうに建っていた。



目を患った人がこの寺の閻魔から眼球をもらって目が見えるようになった。いまでいえば角膜移植のようなものか? そこでその人は、お礼に好物のこんにゃくをそなえたという。以後、こんにゃく閻魔と呼ばれるようになった。こんにゃくが閻魔の好物だったのか? それとも目玉をもらった人の好物だった? そのあたりははっきりしない。



それはさておき、わが身を犠牲にして他者を利するのが宗教の根っこだ。ジャータカこと釈迦の本生譚には、釈迦がわが身を捨てて飢えた虎の餌になってやる「捨身飼虎」という物語がある。キリスト教ではキリストがその肉と血をパンとワインとして人々に与えている。オスカー・ワイルドのThe Happy Price(『幸福の王子』)は貧しい人々のために自らの体を剥ぎ取って与えた。ヒンドゥー教には、夕食のナンをくわえて盗んでいった犬を行者が追いかけて捕まえ、「それだけでは物足らないだろう」とギーをぬったうえで、あらためて犬にナンを食わせてやった、というお話もある。



なぜかネオリベラリズムばかりが流行る。浮世の衆があまりにすれっからしばかりなので、せめてお話だけでも、ということなのであろう。昔も今も。



閻魔堂の前にはこんにゃくが積み上げられていた。ところで、このこんにゃくのあと始末はどうするのだろうか。




25.春日さす寺に眠るや局どの

そのむかしとはいえ、さすがにNHKの大河ドラマの主人公としてとりあげられた人物の菩提寺だ。団体でおまいりに来る。



元祖お局様、春日局の菩提寺・麟祥院である。都営地下鉄本郷3丁目駅の近く、瀟洒なお寺である。育てあげて将軍にした徳川家光から贈られた隠居所がのちにお寺になった。

京都にも麟祥院という名のお寺がある。これもまた家光が春日局に贈ったもの。こちらはもともと能楽堂だったそうだが、のちにお寺になった。

徳川幕府という家産官僚体制を男どもがつくりあげた。これとぴったり寄り添うように、女どもがつくりあげた裏組織がお局体制である。その事務局長として権力をふるった人の菩提寺であれば、世間体からして、このくらいの規模が必要だったのだろう。



存続するためには、宗教も俗世の権力と野合する。墓所の見栄えは俗世の権力と比例する。




24.そんなことどーでもえーじゃないか

都営地下鉄大江戸線を上野御徒町駅で下りて、不忍池にある弁天堂へ行く。お堂は改修工事中らしくすっぽりと覆われていた。



内部は営業中で、奥に仏像らしきものがある。お寺の仏壇風である。しかし、注連飾りがぶら下がっており、木魚の代わりに太鼓が置いてあるので、神社の祭壇風でもある。



うむ。これはお寺か? 神社か? 弁天様は七福神の一人で、インドの神様が日本の土地の神様や神道の神様と混交を重ねてわけの分からない神仏になってしまった。

で、そうした神仏を祭る施設を寺と呼ぶべきか、神社と呼ぶべきか、議論のあるところだろう。寛永寺の出先のお堂として建てられたからお寺、ということもありうる。一方、お寺の中に神社をつくったりする日本的風習がある。

神社であれば、このコラムの対象外だが……と歩いて帰る途中で、おまいりに行くサフラン色の僧服を着たタイのお坊さんとすれ違った。






23.ひと魂でゆく気散じや夏の原 北斎

龍宝寺からと都営地下鉄大江戸線新御徒町駅に向かってぶらぶら歩く。新御徒町駅のちょっと手前で交差点を右折して、再びぶらぶら歩き続ける。やがて、SEIKYOJI TEMPLEという看板に行き当たる。



Bashoとならび、いやBasho以上に海外でその名を知られている日本人、Katsushika Hokusaiの墓がある誓教寺である。



寺には葛飾北斎の胸像がある。なにやら律儀な篤農家の庄屋さんといった様子で、どうも画狂老人と称した人の迫力に欠ける。ま、銅像なんで作らせるモンじゃない。西郷ドンだって上野の像のおかけで、維新の大立者というより大変コミカルなイメージの田舎のおっさんになってしまった。



北斎の墓はこちら、という案内板があり、墓地に入るとすぐのところに、小さな覆堂におさまった北斎の墓があった。「北斎翁墓」と表札がでている。



墓石には「画狂老人卍墓」と彫られている。墓石の側面には、(じつは覆堂が邪魔で読めないのだが、ものの本によると)北斎の辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれている。

 ひと魂でゆく気散じや夏の原 北斎
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

はは、芭蕉と並べて遜色ない。風狂は芭蕉を超える。




22.木枯らしや跡で芽を吹け川柳 初代川柳

森下駅から地下鉄に乗って蔵前駅で下車する。

龍宝寺にある初代柄井川柳の伝辞世の句碑を見に行った。日曜日だったせいか山門が閉じられていた。通用門にベルがあったが、わざわざ住職を呼び出すのも気が引けるので、施錠されていない通用門をそっと開けて寺内に忍び込む。



入ってすぐ右手に初代柄井川柳の辞世の句と伝えられる、

木枯らしやあとで芽をふけ川柳

の句碑があった。



いや、軽やかなもんですなあ。

与謝蕪村の最後の句、
 
 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり

よりもさらにしなやかである。

芭蕉の逝去4日前の病中吟、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

など、年寄りにはゴツゴツと重すぎて消化不良を起こしそうだ。

俳諧や俳句からはずれた雑俳の一つを「川柳」と人名で呼ぶ慣わすことになったのは、普通の人の敬意の表れからだろう。読んで面白いのは子どもの作文と化した芥川賞小説より、直木賞の方である。




21.本歌取りコピー重ねて劣化して

臨川寺をのぞいて、都営大江戸線(いつも思うのだが、この「大江戸」というのはアナクロニズムもいいところだな。元の都営12号線に戻した方がいいと思うよ)清澄白河から一駅、森下駅で下車する。

芭蕉時雨塚の跡が残る長慶寺をのぞきに行く。寺の門をくぐってすぐ右手の隣家との塀際に上部が白くなった石ころが一つわびしく残されている。これが芭蕉時雨塚をのせていた台石だという。



芭蕉の死後、江戸在住の芭蕉一門の人たちが、芭蕉自筆の時雨の句の短冊をここに埋めて石碑を建てたのだそうである。

芭蕉時雨の句とは、

 世にふるは苦しき物をまきのやに安くもすぐる初時雨かな  二条院讃岐

を、飯尾宗祇がコピーして、

 世にふるもさらに時雨のやどり哉  宗祇

とし、それを松尾芭蕉がさらにコピーを重ね、

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉  芭蕉

とした。宗祇の「時雨」を「宗祇」と言い換えただけの、たわいのないもじり句だ。

ただし、芭蕉はこの句が好きだったようで、

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉
 世にふるはさらに宗祇のやどり哉
 世の中はさらに宗祇のやどり哉
 世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉

などのヴァージョンを残している。長慶寺に埋められたのは、残された記録によると、「世にふるはさらに宗祇のやどり哉」と書かれた短冊であったという。

アナログ録音の音楽テープと同じでコピーを重ねるごとに劣化が進む。みじめである。





20.脚組んで思案のほどは美辞麗句

清澄庭園のすぐそばに松尾芭蕉ゆかりの寺がある。芭蕉が深川に住んでいたころ親しくなった仏頂和尚が開いた臨川寺である。



普通の民家にしてはちょっと立派な屋根がある程度の寺である。いまでは芭蕉庵跡地に建てられた記念館のほうが立派に見える。



臨川寺の猫の額のような前庭の片隅に石碑がいくつかある。由来については、看板のとおり。この稿、手抜きではなく、書くことがないに過ぎない。たしかにBlythは俳句と禅を結びつけた。しかし、それは日本的情緒のいくつかの特徴をむりやり禅の影響だとしたに過ぎない。そのそも芭蕉の句に、禅の匂いがするするものが、はたしてあるのだろうか?





19.肩越しにはや白梅のよき日和

深川閻魔堂から都営地下鉄門前仲町駅に戻るのも面倒なので、そのまま清澄通りを清澄庭園の方へ歩く。1月下旬というのに清澄庭園ははや春の雰囲気であった。



なかなか立派な庭園だが、見ているうちに明治という国家資本主義の時代と組んだあくどい実業家のぼろもうけの名残にだんだんと腹が立ってくる。

この清澄庭園の、清澄通りを渡った反対側に霊巖寺がある。「水清ければ魚棲まず」「白河の清き流れに住みかねてもとの田沼のにごり恋しき」と冷やかされた寛政の改革の立役者、白河藩主松平定信の墓がある寺である。



定信の墓は扉が閉じられていて墓地内に入ることができない。なんとなく狭量でけち臭い感じがする。



傍らのお地蔵さんの肩越しに白梅が五分咲きになっていた。今年は春が早い。しかし、山に雪が少ないので、この夏は水で苦労することになるだろう。



霊巖寺を出て清澄通りへ戻る道で、写真のようなものを見た。一瞬、蕎麦屋さんかと思った。



18.おしゃべりの閻魔の舌は誰が抜く?

深川不動堂から清澄庭園の方へむかって清澄通りを行く。楽しく快適な散歩道というわけではない。どちらかというと埃っぽくて殺風景である。



まもなく深川閻魔堂につく。ここはハイテク寺である。まず閻魔様。閻魔様の前の賽銭箱に19の賽銭受け口があり、それぞれ浮気封じから学業促進まで、するさまざまな浮世の悩み事、願い事が19のカテゴリーに分けられている。そこへお賽銭を投じると、ありがたいお説教が流れてくるという仕掛けである。



釈尊は人を見て法を説いたそうであるが、ハイテク深川閻魔堂では金の音が聞こえると説法を流す。ジュークボックスのようである。



また、お寺の案内によると、骨をさらさらのパウダー状にしたうえで真空パツクし、納骨保管する永代供養システムを提供しているそうである。なるほど、こうすれば容積は小さくなるな。狭い東京向きの発想である。





17.メリヤスの股引も売る不動さん



都営地下鉄大江戸線を月島駅で下りてあたりを少しだけ眺めてみる。ずいぶんと様変わりした。かつて有名だった月島の路地をふさぐように超高層アパート群が建っている。もんじゃ焼きの店は今でもあるが、こちらは広島式お好み焼きを食って育ったので、もんじゃ焼きなどおかしくって食っていられない。



門前仲町でおりて深川不動堂へ行く。成田さんの出店である。ちょうど1月28日の縁日だったのですごい人手だった。地下鉄の出口から不動堂までぎっしり露店が詰まっている。



はき心地のよさそうなメリヤスの下着を売っている露店もあった。インドや中国の田舎で露店商がブラジャーをぶら下げて売っている風景をみたことがあるが、いまどきの東京で露店の下着商は珍しい。



その他、仲見世は雑然としてにぎやかで、活気にみちあふれている。






16.念仏も築地はイナセな異国趣味

都営地下鉄大江戸線を築地市場駅で下りると、当然のことながら築地市場に出るのだが、そこをちょっと進むと、築地本願寺にたどりつく。

堅苦しく紹介すれば、浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。江戸時代の初期に西本願寺の別院とし浅草あたりに建てられたそうだ。しかし、まもなく火事で焼け出され、築地の海を埋め立ててこの寺を再建したそうである。



関東大震災で再び壊れたのち、東京大学の伊東忠太教授が古代インドの寺院建築様式をまねて、日本離れした石造りの本堂を建てた。伊東はロバにまたがってインド、ペルシャ、トルコを巡って建築の調査をした非ヨーロッパ、アジア志向の建築家・建築史家だった。一方、建築を発注した大谷光瑞は、西域に仏教調査・探検隊を派遣したアジア趣味の人。二人が意気投合してつくりあげた建物であった。

外部は印度様式でありながら、内部は日本古来の派手な桃山様式を取り入れ、ちょっとキンキラキンなところがある。本堂内にはパイプオルガンもある。キッチュなお寺で、そこのところを面白がって著名人の葬式がよくある。参列したことがないのでよく知らないが、パイプオルガンでワグナーの葬送行進曲など奏でているのかな?



15.ハレの日は善男善女どっと来て



都営地下鉄大江戸線を赤羽橋で下りてちょっと歩くと増上寺に着く。

「今鳴るは芝か上野か浅草か」といわれた江戸以来の大身のお寺である。徳川将軍家の菩提寺であった。明治になってお寺の境内を含む用地全体が公園の指定を受けた。戦後、お寺の境内部分が公園から分離された。増上寺と隣接する芝公園はもともと寺領だった。東京タワーが建っているところは増上寺の元墓地だった。太平洋戦争末期の東京大空襲で焼け出されので、お寺の建物は戦後の再建である。



正月3日のめでたい日に増上寺をのぞいてみた。たいした人ごみである。境内に屋台が開業し、テーブルや椅子が置かれ、古くなった位牌など仏具を境内の一角で坊さんがぼんぼん燃やし、大きな焚き火になっている。「ゴミは投入しないでください」と至極もっともな注意書きが掲示されている。



おみくじには長い列ができていた。どこからかありがたい説法の声が拡声器で流れてくる。めでたいハレの日である。善男善女を演じてみたくなる。千数百体あるといわれる子育地蔵も晴れ着で着飾っていた。






14.ここにはじまる日米愛憎のメロドラマ

麻布十番駅で下車して善福寺へ行く。

京都の寺の借景は山や木立と相場が決まっているが、東京の都心ではなんといっても高層ビルである。しがし、こうしてみると、背景のビルが安っぽく見えるから、寺院建築というものにはそれなりの重厚さがある。



この寺は幕末の1859年にアメリカ公使宿舎としてつかわれた。タウンゼント・ハリスらが滞在した。ハリスの通訳をしていたヒュースケンは攘夷派の浪人に切られてこの寺で息を引き取った。幕末の日本にやってきた西洋人の気分は、現在のバクダッドに駐在する米国人のようなものだったろう。バクダッドの場合は、すでに10余万人の米兵らがいて、さらに2万人を増派する。ということは、幕末の日本に徒手空拳で暮らした当時の西洋人の方が、もっともっと不安だったことだろう。

ハリスはいわゆる唐人お吉を妾として囲った男である。妾というのは正確ではないかもしれない。ハリスは独身だったから愛人というべきか。お吉をハリスに周旋したのが当時の徳川政府の役人だった。現代は日本の政府そのものがアメリカ合衆国の妾的存在になっている。



善福寺には1936年に建てられた駐日アメリカ公使ハリスの顔が刻まれた記念碑が残っている。日本が「鬼畜米英」とののしりながらアメリカと戦争しているころ、この記念碑は土中に埋められていたという。アメリカならでは夜の明けぬ戦後日本になって掘り出されて、以来、善福寺の境内に立っている。
 



13.雷電の深き眠りや初茜  一申

都営地下鉄大江戸線を青山一丁目で下りる。行く先は報土寺である。そこには今をときめく朝青龍でさえも、たぶん真っ青の雷電の墓がある。

報土寺は三分坂にある。港区で随一の急坂と威張っているが、サンフランシスコの坂を思えば、ま、箱庭の坂だね。その坂道に沿って報土寺の塀があるのだが、これが時代物の築地塀。のっぺりしたビルの壁面ばかり見ている目には、どこか心地よいものがある。



この報土寺が19世紀のはじめ火事で焼けたとき、お寺の再建にあわせて雷電が釣り鐘と鐘楼を寄進したそうである。鐘の中央に「天下無双雷電」とPRを刻みこんだ。それが徳川殿をいたく怒らせ、鐘は没収、住職と雷電は江戸払いになったそうだ。



雷電の墓はこの報土寺のほか、生まれ故郷の長野県と、スポンサー松平家の領地だった松江にある。報土寺の墓は相撲ファンの子どもや外国人もよく訪れるらしく「らいでん RAIDEN」の案内板が掲げられていた。墓には重さ30貫という「手玉石」も置いてある。

山門脇にこのような一句が掲げられていたのでタイトルに借用した。





12.正月は卒塔婆よりも門松がよし
   無縁墓身を寄せ合って暖をとる


都営地下鉄大江戸線を国立競技場駅で下りる。国立競技場の近くにあって「聖輪」寺というから、てっきり東京オリンピックと関係ある寺だと、思うでしょう? 思わない? 

聖輪寺は渋谷で一番古い寺といわれている。初詣のつもりでのぞいてみたが、それらしき人の姿はなく、墓参の人影がちらほらあっただけ。



門松が建てられていたので、これを借りて当ブログの新年ご挨拶とする。卒塔婆と比べると門松はやはり生き生きとした緑があってうれしい。門松と卒塔婆を同時に眺め、ちょっとだけ「生老病死」について思いをいたした。



近くの瑞円寺にも参った。こちらはお寺の玄関のインテリアがなかなかイケた。中に入って写真をとろうとしたら、お坊さんがスーっと現れた。警報装置か監視カメラでも付いていたのだろうか。



瑞円寺の墓地では、無縁墓が集められてピラミッドになっていた。山手線内側の寺だから仕方のないことだろう。いや、かえってこのカタチ、味わいがある。都会の孤独、身を寄せ合う墓だ。






11.さあさあいさぎよく脱ぎなされ

天龍寺から歩いてちょっとのところに太宗寺がある。江戸時代に建てられた寺だが、何度も火災にあって焼けた。現在使われている本堂は、鉄筋コンクリートのドームである。新興宗教の本堂のように見えなくもないが、新宿の寺だと思えば、新宿という怪しげな(新宿だけでなく都会はみんな怪しげである)街にあっている。


左側奥のコンクリートのドームが太宗寺本堂

太宗寺の閻魔堂に、閻魔さまの像と閻魔さまの妹だといわれている奪衣婆の像が安置されている。脱衣婆は三途の川で亡者から衣類を剥ぎ取るばあさんだといわれている。この奪衣婆像が江戸時代は新宿の飯盛女に信仰された。着物を脱がせることを仕事にしているので、同じように着物を脱がせて仕事をしている彼女たちの大先輩だったのだ。



閻魔堂は施錠されており、扉の金網越しでしか閻魔さまや奪衣婆が拝めない。金網の隙間から撮影したが、フラッシュの光量がたりなかったようである。だが、そのためにかえって、おどろおどろしい奪衣婆になった。





10.名刹残骸となりて屹立す

都営地下鉄大江戸線を新宿駅で下りて新宿4丁目の方へ向かうと、かつての名刹天龍寺がある。江戸時代の区画整理で新宿に移転し、さらに東京空襲で寺は破壊された。古い建物としては、山門と鐘つき堂がのこっているだけである。山門はなかなかの威容で、かつては式のある寺であった歴史をしのばせる。



天龍寺の鐘は1700年ごろ初代の鐘が造られ、現在残っているものは1767年に鋳造されたものといわれている。内藤新宿に時を告げる「時の鐘」であった。



明治末刊行の『東京近郊名所図会』によると「時の鐘、天竜寺の鐘楼にて……此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に……新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を『追出し鐘』と呼べり」。新宿ではよく知られたエピソードである。



9.ワット驚くパゴダ金色

宝仙寺からちょっと歩くと慈眼寺がある。このお寺には石仏があるというので足を伸ばしてみたわけだが、石仏はお寺の片隅の塀際にちょっと並べてられているだけだった。



それよりも、面白かったのはお寺の境内に建てられていた黄金色の仏塔である。このお寺の住職がかつてバンコクのあるお寺のお坊さんと親しくしていたことから、慈眼寺の境内に、東南アジア式の仏塔を建てたのだという。仏塔の形そのものはミャンマーの首都ヤンゴンのシュウェダゴン・パゴダに似ている。



仏教はシャカが死んだ後、上座部と大衆部に分裂した。日本仏教は大衆部の流れをくむ。タイの仏教は上座部に属する。タイの仏教と日本の仏教はイスラム教のスンニ派とシーア派以上の違いがある。

日本のお坊さんのほとんどが所帯持ちであるが、タイの仏教では坊さんは妻帯しないことになっている。タイのお坊さんに言わせると、坊さんが妻帯するなど信じられないということになる。タイでは女性はお坊さんの体や着衣に絶対に触れてはならないとされている。とはいうものの、タイのお坊さんの中には、ひそかに愛人をかこっているものがいて、このあたりは日本のお坊さんの一部と同じことをやっている。そのあたりは割合近い。

大衆部と上座部が慈眼寺で仲良く同居しているのも、お寺の中に神社がある日本という国ならではの功徳というものだろう。



8.多角経営南無貸借対照経都会寺



日曜日の午前中、都営地下鉄大江戸線を中野坂上駅で下りて、青梅街道を宝仙寺の方へ歩いた。すると、同じ方角に何人かの女性が黒いリクルート服姿で歩いて行く後姿に気づいた。日曜日にどこかの会社が入社内定式でもやっているのかな、と思っていたら、女性たちは宝仙寺の山門をくぐって境内に入った。

山門周辺には警備員が複数立っていて、ちょっとした大がかりな葬儀のようである。宝仙寺は中野区あたりでは社葬や地域の有力者の葬儀がよく行われるところだ。試みにインターネットで調べてみると、宝仙寺の社葬だと会葬者400人程度で、お寺へのお布施は別にして総費用1,000万円ほど。青山葬儀所だと会葬者1,000人程度で同2,000万円だそうである。



宝仙寺境内にはそのむかし、旧中野町の役場があった。その石碑が残っている。さらに宗教法人以外にも、学校法人を設立し、広大な寺域を使って幼稚園から短期大学まで経営している。

まあ、俗界と意欲的に関わりあっている都会の寺のひとつの典型であろうか。



7.向こう岸から眺めればまだ暮れ残る別の秋

源通寺からちょっと歩くと萬昌院功運寺がある。ここには赤穂の浪人たちに首をとられた吉良さんのお墓がある。

お寺の門のところに守衛さんがいて、吉良家のお墓の写真をとりたいといったら、訪問者名簿に名前を書かされ、白いリボンを付けるようと手渡された。お寺の境内には幼稚園があり、くれぐれも園児の写真はとらないようにと、申し渡された。行き届いた警備である。



吉良家のお墓には新しい花が備えてあった。お墓の左右に吉良上野介ともども切り殺された吉良邸のガードマンや従業員の名前が彫られた石版と、供養塔が建てられていた。石版は黒御影石でその名も「吉良邸討死忠臣墓誌」。彫られた名前を勘定すると38人もいた。討ち死に者の中には15歳の茶坊主もいた。何かの拍子で敵戦力とみなされて殺されたのであろう。



赤穂側の死者0、吉良側の死者が上野介本人を入れて39という極端な差である。これが実際の数だとすれば、あの事件が闇討だったことをよくあらわしている。

6.知らざあ行ってご覧なせえ
  時雨の空に墓石ふたつ


都営地下鉄大江戸線日がなし中でおりて、細い商店街を抜けていくと河竹黙阿弥の墓がある源通寺にたどり着く。このあたりはいくつかのお寺が集まっていて、現通寺はもともと浅草辺りにあった寺だそうだが、明治の終わりごろ引っ越してきたそうだ。

ひところ大学が都心を捨てて郊外に出たのと同じように、都市の過密化などでお寺も郊外移す必要があったのだろう。

それはさておき、河竹黙阿弥は江戸末期から明治にかけての歌舞伎作者で、坪内逍遥に「江戸歌舞伎の大問屋」と評された。本名、本名吉村芳三郎、現役名2世河竹新七。なかなかの遊蕩児で、柳橋で遊んでいるのが見つかり勘当されたのが14歳のとき。この遊蕩で得たものを、歌舞伎に生かした、とされる。



黙阿弥の墓には石が二本立っており、向かって右に河竹黙阿弥、左に南無阿弥陀仏と刻まれている。台石にはいずれも本名の「吉村氏」が彫られている。



お寺の入り口にはこんなお説教が張り出されていた。



5.とまれ山門には木々をそえて
  
フルネームだと夏雪山廣原院能満寺。

数年前、本堂を改築した。まだピカピカである。西武池袋線江古田(えこだ)駅殻のほうが近いが、都営地下鉄大江戸線新江古田(しんえごた)駅でおりて少し歩いた。「江古田」は中野区では「えごた」と発音し、練馬区あたりでは「えこだ」と発音していたので、同じ漢字の駅名がちがって発音されることになった。ちなみに、西武池袋線江古田駅は練馬区内にあり、都営地下鉄大江戸線新江古田駅は練馬・中野の境界線にまたがっている。



参道に入ると左手の一角に地蔵があり、やや坂道になったかなり長いアプローチの先に山門がある。境内以上に立派な山門がある。能満寺そのものは板橋区内にあって、板橋七福神めぐりの寿老人の寺になっている。



能満寺について書くことといえば、このくらいかな。



4. ねむれねむれ剣禅一如のあらくれども

都営地下鉄大江戸線を練馬駅でおりて少し歩くと広徳寺がある。



寺の門に「拝観謝絶」のお断りがデンとすえられていた。ご丁寧に「寺内猛犬放し飼い」の高札もあった。もともと、愛想のいい禅寺というのは珍しいのではあるが、ここまで世俗を敬遠する寺も珍しい。



ベルをおすと、お坊さんが出てきた。「柳生一族の墓の写真をとらせていただきたい」と頼んだところ、お坊さんはどうぞどうぞと、わざわざ墓まで案内してくれた。お坊さんによると「拝観は謝絶中だが、お墓参りはお断りしていない」という。禅問答めいている。愛想が悪いのか。愛想がよいのか。禅寺のやることはどうもよくわからん。



柳生家の墓所には但馬守宗矩、十兵衛三厳、飛騨守宗冬の3人の墓石が並んでいた。幕末動乱で徳川家の家来から天皇家の家来になって、華族の称号をもらった13代目柳生但馬守俊益、後に子爵柳生俊郎、の墓もある。柳生一族の墓石を裏から撮影してみた。“裏柳生”というダジャレである。



3.新そばはおろしでもよしもりもよし

練馬春日町から新宿方向へ向かうと、次の駅は豊島園。豊島園の駅前に通称十一カ寺とよばれるお寺の団地がある。関東大震災で郊外の練馬へ引っ越してきたお寺である。

通りの両側に11の寺があたかも老舗の日本風情で建っている。通りを歩いているとあちこちから木魚をたたくポクポクという音が聞こえてきた。11の寺すべてが浄土宗で、誓願寺という大きな寺の塔頭だった。寺によって木魚をたたくリズムがことなり、8ビートもあれば4ビートもあって、なかなか面白い。

道路の突き当りに広い墓地がある。



通りの一角に、蕎麦喰地蔵尊奉安所の案内があった。誓願寺の時代、ある塔頭の地蔵尊が夜な夜な坊さんに化けて蕎麦屋に通っていたというお話をかたちにした。





2.大根の石碑なでおり秋の風



練馬には田畑がはほとんど残っていない。かつて沢庵漬けで有名だった練馬大根も生産されなくなった。大根にはすぎた大きさの練馬大根顕彰碑だけが残っている。大江戸線を練馬春日町で降りてすぐの愛染院というお寺の前に大根碑がある。

愛染院は敷地内に葬祭所を構え、繁盛しているようなお寺に見えた。山門は小ぶりだがちょっと古風な赤門。境内の半分以上が葬祭施設と墓地。ま、それだけのことですわ。





1.天高し釈迦まぼろしの苦行像



 むむ、一句としてはほとんど意味をなしていないが、冒頭に何か置かないと格好がつかない。いたしかたないか。

 朝から日差しが強かった9月末のある日、東京都練馬区高野台3-10-3の東高野山長命寺まで、都営地下鉄大江戸線・光が丘駅から歩いて行った。西武池袋線の練馬高野台駅で降りると、駅150メートルの寺だが、「灌頂芳香大江戸線 一寺一句」と名乗ったからにはしかたのないことである。
 都営地下鉄大江戸線は、以前は都営地下鉄12号線といっていたが、全線開通で大江戸線と改名した。筆者の好みからいえば、「大江戸線」より「12号線」の方がすっきりしている。カローラだのクラウンだのと名乗るより、BMW330の方がスマートだ。
 それはさておき、秋のお彼岸が終わったばかりなので、お寺に人がやって来る気配がない。にぎやかなのはお墓に残っているお花だけであった。



 南大門の前で30分ほど、あまり迫力のない仁王さんなどを眺めているうちに、やっと30人ほどの年配のグループが旗を掲げて現れた。



 寺の北側の薄暗い木立の中に石仏が並べてある。高野山の気分を出そうという工夫であろう。


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Kasen Fair Is Foul
Shakespeare, Flores, Nose, Greengrass, D. Horse, Natalia...
July 15 - August 31, 2006



                
fair is foul
foul is fair
thunder and lightning
    (Shakespeare)



                photo by mandala


  darkness on scorched earth
  lindenbaum scents the air
               (Flores)

the sun also rises
over the soccer stadium
no roar of the crowd any more
            (Nose)

  hero has walked off in shame
  ah where is he heading for?
             (Greengrass)

a caravan fades away
toward the moonlit desert
lingering camel bells
              (D.horse)


  just one fish on the bottom
  looks up at the autumn rain
              (Natalia)

hillside foliage turned
to red and yellow patch
mom's quilt remains unfinished
              (nose)



  how to untangle the threads
  Rice jumps in the boiling pot
               (flores)

smoke of shish-kebab
overcast by gun smoke
cross fire on the grill
             (horse)

  survival of the fastest
  deadly law of the wild west
             (greengrass)

two horsemen hurry along
for hot meal and bath
lights of town dim in the blizzard
              (nose)

  to kiss and wake her up
  he knocks on the back door
             (flores)

you’ve gone this morning
my heart hasn’t been quite right since
a draft in harem
             (greengrass)

  a young lady cleans up wilted flowers
  of the soldiers' graveyard
             (d.horse)

moon was bloody red
in hazy Vietnam’s quagmire
still their nightmare
             (flores)

  here passing a parade float
  full load of pumpkin masks
             (nose)

which is the witch
which flies on the broom
in a typhoon?
            (greengrass)

  let's go hiking tomorrow
  I'll make turkey sandwiches
            (d.horse)

ナオ
you are on the right
a basket on the left
a cranberry hill
            (flores)

  far away down on a bay
  sails swell in the sunset
            (greengrass)

ladies dressed elegantly
swoop down on games
Gucci's bargain sale
            (d.horse)



  goodbye earthiness
  el condor pasa
            (flores)

ding-dong of the temple bells
moon light through cottage windows
vague memories of my home
            (nose)

  wide awake through a long night
  a lonely wandering poet
            (greengrass)

from the alpine pasture
countless sheep rush driven down
snow clouds coming fast
             (d.horse)

  hi dear sit down to table
  rack of lamb is sizzling
            (flores)

finally fizzled out
my juvenile crush on her
alas fifty years
             (d.horse)

  old memories never die
  neither do they fade away
            (greengrass)

the moon shines a light on
an empty airstrip
last homebound plane just took off
             (nose)

  sending them off to safety
  good guy of Casablanca
             (flores)

ナウ
so time goes by
to the age of chivalry
offer flowers
             (greengrass)

  if fine, pleasure of gardening
  if rain, pleasure of reading
             (d.horse)

days of wine and roses
morning comes evening comes
with bottles scattered
            (flores)

  sober enough to feel
  the breeze of early spring
            (nose)

the sunshine sparkling
the fresh black soil smelling
a thaw has set in
            (greengrass)

  morning haze has cleared off
  fresh green is a magic force
            (mandala)

-- end --
















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お知らせ
ご案内

日ごろのご愛読を感謝いたします。

逆めぐり「奥の細道」の深川到着を機に、これまで weblog renga world に掲載してきた作品を別サイトLa Edad de Oro にまとめて収録いたしました。こちらのほうが読みやすくなっているかと思います。La Edad de Oro をクリックして一度のぞいてくださいませ。

mandala  ニョロ
一同    ピピピ
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逆めぐり 「奥の細道」 第1章 仙台―深川
1 深川の山師・芭蕉

芭蕉を「彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と評したのは芥川龍之介である。もっとも芥川はこの寸評の前に「禅坊主は度たび褒める代わりに貶す言葉を使ふものである」と添えているから、芥川は芭蕉を「山師」と褒め称えているのだ。

「続芭蕉雑記」で芥川は芭蕉を以下のような男としてとらえている。芭蕉は「不義をして伊賀を出奔し、江戸へ来て遊里などへ出入りしながら、いつか近代的(当代の)大詩人になった」。芥川に言わせると、芭蕉はその作品は別にして、彼の一生は特別神秘的でもなんでもなく、西鶴の「置き土産」にある蕩児の一生と大差ない。



内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』は、芭蕉の伊賀出奔の理由は19歳のとき主君の夫人の侍女と通じたという冤罪を負って憤慨した⊆膩没後、その夫人と醜聞があったと悪意のうわさを広められ激昂した7参任髪霾垢あった、などの風説があるが、いずれも信じがたいとしている。Bashoistである内田は、芭蕉のこととなるとうって変わってまじめな口調で、芥川の不義出奔説を否定する。

また内田は、遊蕩について、芭蕉は遊びぬいた人であるとの説もあるが、確固たる根拠がない、という。支考が『露川責』で「むかし西行宗祇など兼好も長明も今日の芭蕉も酒色の間に身を観じて風雅の道心とはなり給へり」と書いていることについて、支考は我田引水の説を捏造するものであるから信じがたい、もし芭蕉に遊蕩の時代があったとすれば、江戸に来る以前の寛文時代で、江戸に来て以後はそのようなことはありえない、と否定している。



芭蕉稲荷

狩衣を砧の主にうちくれて     路通
 わが稚名を君はおぼゆや     芭蕉

 宮に召されてうき名なづかし   曾良
手枕に細きかひなを差しいれて   芭蕉

 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭
よつ折の蒲団に君が丸くねて    芭蕉

芥川は「芭蕉雑記」で上記の句をあげて、芭蕉を次のように定義する。芭蕉は時代を捉え、最も大胆に時代を描いた万葉以後の詩人である。芭蕉は茶漬けを愛したなどというのも嘘ではないかと思われるほど、元禄人が好んだ多情と世俗の甘露を語りつくしている。

同時に、芥川が言うように、芭蕉は世故人情に通じた世渡り上手な苦労人だった。芭蕉の今日あるはその弟子があくことなく芭蕉を語ったからである。芭蕉が唱えたとされる「わび・さび・しおり・ほそみ」などは芭蕉に代わって弟子たちが「翁いわく」と世間に広めた。



芥川の「芭蕉雑記」や「続芭蕉雑記」を読むだけでは、芭蕉がなぜ「三百年前の大山師」だったのかよくわからない。芭蕉は元禄の時代精神をうたいつくした詩人であり、世渡り上手な俳諧団体オーガナイザーだった。しかし、芭蕉が日本の国民的詩人の一人と評価されるのは、それだけの理由にすぎないのか?

(閑散人 2006.7.1)




2 旅立ちの千住・草加

千住は奥州街道第1の宿駅であった。芭蕉が深川から船に乗り隅田川をおよそ10キロさかのぼって千住に降り立ったのは、『奥の細道』本文によれば「弥生も末の七日」(旧暦3月27日、新暦5月16日)、奥の細道業務日誌である『曾良旅日記』によれば、旧暦3月20日(新暦5月9日)のことだった。



芭蕉・曾良の2人組は千住から草加・春日部へと歩き始めた。奥の細道行脚の始まりである。2人が旅した元禄時代にまでには、日本国内の道路網の整備はかなり進んでいた。ダートロードで雨が降ればすぐぬかるんだが、幹線道路には旅行に必要なさまざまな施設が整備され始めていた。



蕪村筆「奥の細道画巻」千住 (逸翁美術館本)

藤岡作太郎によると、西行、宗祇、芭蕉が日本における三大旅行詩人だというが、芭蕉は西行、宗祇と比べて旅人としての姿勢が自然でない、と山本健吉は言う(『山本健吉全集 第8巻』)。西行は実に自然に旅人になり、宗祇は戦乱の時代の漂泊の詩人だが、芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になった、という。元禄という定住安住の太平の時代に旅人になった。あのような太平の世の中にあって、なんら家の勤めも果たさないで、ふらふら浮かれ歩いているのは、常識を持った人の学ぶべきことではないという上田秋成のコメントも、山本は引用している。

結論から言えば、芭蕉は17世紀の旅行家としては特筆に価しない。行動半径からいえば芭蕉の同時代人である仏師円空が芭蕉をはるかに凌駕している。時代の記録者としては荻生徂徠が芭蕉を抜く。荻生徂徠は旅の作品に時代と人々の暮らしを活写して後世に残した。芭蕉が訪れた先は歌枕に過ぎなかった。『奥の細道』からは生きた人間の呼吸が伝わってこない。

しかし、加藤周一は『日本文学史序説』で芭蕉の功績を次のように要約している。芭蕉は武士社会から脱落し、町人社会にも身を寄せず、仏教に関心を寄せたが仏教による現世超越にも向かわず、日本の土着世界観を徹底させた美的世界である「風雅」の価値信仰に生きた。加藤周一は芭蕉のそうした世界を「日常的彼岸の現在」とよんだ。文化の世俗化の徹底である。

芭蕉にとって旅はその風雅の感覚を研ぎ澄ますための手段であった。とはいえ、芭蕉の旅には弟子が同行し、パトロンがおつきの者を提供した。旅先では俳諧のパトロンが丁重に芭蕉を迎え、面倒を見た。『奥の細道』には旅のつらさを書き連ねているが、このころの一般人の旅に比べれば優雅なものだった。



草加にある芭蕉シンポジウム記念ドナルド・キーン植樹の碑

ともあれ、こうした旅で芭蕉は発句に自然を詠みこんだ。加藤周一に言わせると、日本の抒情詩人は『古今集』以後は見たこともない歌枕を詠んだが、芭蕉は現地体験を持った。芭蕉の句の中には画期的な自然の発見がある。「一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を歌ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むと自ら信じるようになったのである」と加藤は力んで見せる。だが、これはちょっと勇み足だろう。

オスカー・ワイルドは「自然もまた芸術を模倣する」と喝破したが、芭蕉もまた、「このように自然を見よ」と日本人に教え、やがて日本人が日本の自然をそのように見るようになったのであろう。日本は春雨、五月雨、夕立、秋雨、時雨とやたら雨が多く湿っぽく、夏は耐えらないほど暑苦しい国でもある。にもかかわらず、日本のことを四季折々に美しい自然が楽しめる国と日本人は思っているようだ。これはどうやら芭蕉の贈り物のおかげらしい。

内田魯庵は芭蕉の「俳骨」は国典にあらず儒学にあらず、禅の修業であった、という。加藤は芭蕉は仏教に関心を寄せただけという。内田は芭蕉の学識について、芭蕉よりもっと優れた学識のある俳諧人はいたともいう。

もし芭蕉がその人生の後半で旅に出ることがなかったら、単なる元禄の詩人にとどまっていただろう。旅は芭蕉にとって「投機」の時、「投機」の場であった。山本健吉の言うように、「芭蕉は自らの決意で、無理をしながら旅人になり」、『奥の細道』で一発あてた「大山師」だったのだ。

(閑散人 2006.7.1)




3 室の八島は荒れにしを

カリフォルニア大学バークレー校の先生の日本見学に付き合ってあげたとき、その先生が感慨を込めて次の一言をのたもうた。

「日本のものはみんな小さい」

たしかに。そういえば、末の松山の隣にあった「沖の石」も言語イメージのインフレ効果によって名所になっていた。



沖の石

李御寧さんに指摘されるまでもなく、日本文化は縮みをもって尊しとする傾向がある。「室の八島」には、多島海のイメージを与えるが、出かけてみると大神神社の室の八島は小さな水溜りでしかなかった。しかも、そうとう荒れていた。



室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。

曽良の俳諧書留には室の八島で制作した芭蕉の以下の5句が」メモされていた。しかし『奥の細道』室の八島の段に載ることはなかった。

 
室八島
糸遊に結つきたる煙哉     翁  
あなたふと木の下暗も日の光  翁
入かゝる日も糸遊の名残哉
      (程々に春の暮れ)
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえす春の暮

室の八島は芭蕉が奥の細道の旅で最初に訪れた歌枕である。にもかかわらず、この書き方があまりにもそっけないので、芭蕉は室の八島に失望したのだろう。それが奥の細道研究者の一般的見解になっている。貝原益軒は『日光名勝記』(1714年刊)に、室の八島の水は枯れ、いわれるように水気が煙のように立つことはなかったと書いている。芭蕉が訪れた1689年も水が枯れていて、歌枕の往時の姿はどこにもなかったのであろう、と研究者たちは想像している。

この項の筆者が訪れた2006年6月初旬、室の八島の池には濁ってはいるが水があり、鯉も泳いでいた。そして、なんと大神神社は煙に包まれていた。



年ふりて室の八島は荒れにしを往時しのばせ煙る大神
                     (閑散人 2006.6.30)
次回は草加


4 日光のオマージュ

芭蕉は老荘の書になじんだという。芭蕉は老子・荘子の孤独な隠者風のプロフィールにあこがれ、それをなぞろうとしたようだ。しかし、政治哲学者としての老子のニヒリズムや、荘子の宗教哲学者としての天衣無縫には縁が薄かった。

卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
  あらたうと青葉若葉の日の光

上記のような『奥の細道』の記述は徳川政権に対する芭蕉の手放しのお追従なのだろうか? このことに関わる議論が阿部喜三男『詳考奥の細道』(山田書院、1959年)に比較的詳しく紹介されている。



「あらたうと青葉若葉の日の光」は実景の句というよりは挨拶の句であり、家康の慰霊を讃えたものである(志田延義『奥の細道評釈』武蔵野書院、1956年)。これに対して、「旅行のさいはその地の地霊に挨拶をしてゆくのは芭蕉の詩の発想としてきわめて自然であり、卑屈さはない」と山本健吉は、徳川将軍家ではなく、日光の地霊を讃えたのだと、芭蕉を弁護している(山本健吉『芭蕉』新潮社、1955年)。

井本はこれを芭蕉の個人的な資質ではなく、時代のせいにしている。「芭蕉が徳川家の政治に対して矛盾を感じていなかったらしく思われて、失望させられる。しかし、元禄という時代はそういう批判を十分に成長させえない時代だったのだろう。もちろん、一方では、芭蕉の限界をそこに見ることができるわけである」(井本農一『奥の細道新解』明治書院、1951年、増補版は1955年)。

このような議論をまとめて、著者の阿部は「政治的社会観といったようなものには、おそらく芭蕉はこの当時ほとんど関心がなく、徳川の施政のままを穏やかにうけているといった程度だったのであろう」と結論している。

一方、2003年に出版された堀切実編『「奥の細道」解釈辞典』(東京堂出版)は「芭蕉の日光賛美は、そのまま東照宮賛美に重なる。太平に治まった世の中が徳川家によってもたらされたことに対する芭蕉の感謝の念が率直に表れた章段」と短く触れているだけである。



文芸の研究書とはいえ、第1次安保闘争の前年に出版された本と、ネオリベラリズムの風が吹き荒れる2003年の本では、時代の風潮によって著者・編者の関心のありどころが見事にちがっていて、なんとも面白い。

ご威光を芭蕉青葉にきらめかす木の下陰の民にあまねく
                      (閑散人 2006.6.30)
次回は室の八島





5 優しくたたずむ雲巌寺

雲巌寺は寺全体がすっぽりと緑につつまれていた。美しい寺である。臨済宗妙心寺派の禅寺。筑前・聖徳寺、越前・永平寺、紀州・興福寺とともに禅宗の四大道場の一つとされた。だが、そんないかめしさをいっさい感じさせない優しいたたずまいの寺である。



青葉の中を朱塗りの橋を渡って石段を登り境内に出ると、その一角に紫陽花の植え込みがあった。筆者が訪れたのは石楠花がまだ残っているころで、紫陽花の開花までまだ間があった。紫陽花の茂みにかこまれるようにして、芭蕉の雲巌寺訪問を説明した案内板があった。



『奥の細道』は次のように物語っている。

当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。
  竪横の五尺にたらぬ草の庵
    むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼梺に到る。山はおくあるけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔したゞりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたつて山門に入。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
  木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。

「木啄も庵はやぶらず夏木立」だが、木啄(啄木鳥、きつつき)は、俳諧の季語分類上、秋におさめられる。芭蕉は平然と啄木鳥を夏木立に添えた。いかなる禅機によるものだろうか?

佛頂和尚は深川時代の芭蕉が参禅のためしばしば訪れた禅師だ。芭蕉は雲巌寺訪問の目的を佛頂和尚が修行時代に雲巌寺裏山にこもり、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」の歌をかたわらの岩に書いたと語ったことがあったからだ、と書いている。

佛頂和尚は住職をしている鹿島根本寺の寺領が鹿島神宮に取り上げられていることを不服として江戸に来て寺社奉行に訴えた。この訴訟のため、和尚は深川に臨川庵(後に臨川寺)を結び、仮住まいしていた。

芭蕉が佛頂からどのような禅を学んだのか、詳しいことは知らない。佛頂和尚の「梅子熟せりや」の問いにたいして、芭蕉が「桃の青きが如し」と応じ、そのときから桃青の俳号を使うようになったという俗説がある。この禅問答めいた俳号の由来話には矛盾がある。芭蕉が深川に住み始めたのが1680年の冬。佛頂和尚との付き合いはその後に始まった。しかし、芭蕉はその5年前の1975年から桃青の俳号を使い始めている。俳諧にとって禅などはこの程度のフリルに過ぎないのであろう。

芭蕉は佛頂が語ったという「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶやしもく雨なかりせば」をたよりに雲巌寺にきたそうだから、雲水の「一所不在」へのこだわりを、修行よりも、スタイルの美学の視点から有難がったのだろうと思われる。

道元は、仏法は仏法そのものとして修学されるべきで、文芸などは真実の修行者には用のないものである、といった。しかし、大方の日本人は、仏像の荘厳な美しさや、仏教の法会に関連する音楽・舞踊・文芸などの総合的な芸術美が仏教そののもであった(中村元『日本人の思惟方法』中村元選集第3巻、春秋社)。

中村元は「色は匂えへど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」(もろもろの作られたものは無常であって、生滅を本質とするものである。それらは生じては滅びる。それらの静まることが安楽である)というインド人の抽象的思考を「色、匂う、奥山、越える、夢、酔う」などの直感的・具象的な観念を用いて、情緒的な表現を前面に出し、抽象的理論を背後に隠し、日本的に翻案したものであるという。

「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」に芭蕉が感動した背景には、こうした日本流の情緒的美学の伝統があった。そうした情緒の上に俳諧が乗っているのだ。



D. J. エンライトという日本で教壇に立ったこともある英国の詩人が「俳句には概して社会性がなく、作者には個性がなく、批判精神がない。だから俳句は大嫌いだ」と本(D. J. Enright, The World of Dew:Aspects of Living Japan, London,1955)に書いたという話を上田真が紹介していた(上田真『蛙飛びこむ―世界文学の中の俳句』)。

べらぼうめ草の庵の悔しくば結跏趺坐せよ五月雨の下                    
                      (閑散人 2006.6.29)
次回は日光



6 遊行柳の緑したたる

芭蕉は殺生石をみたが、感銘を受けたような様子はない。殺生石は温泉の出る山陰にあって、石の毒気はいまだに猛烈で、蜂や蝶が折り重なって死んでいて、砂が見えないほどだ、と大げさで粗雑な描写をしている。



それから芭蕉は那須町芦野の遊行柳を尋ねた。ここは西行が、

  道のべにしみず流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ

と詠んだところだ。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ
田一枚植て立去る柳かな




芭蕉のあと、蕪村もここを訪れ、

  柳散清水涸石処々

と添えた。



筆者が訪れた6月初旬の風景としては芭蕉の句がぴったりだった。奥の細道の中で、久方ぶりで「作り物でない」芭蕉の写生句にであったような気になったのだが、本を開くと、実はそうでもないのである。このあたりが芭蕉という人のくえないところなのであるが。

専門家たちの論文を読むと、「誰が苗を植え」「誰が立ち去った」のかで意見がばらばらに割れている。
柳の精が田を植えて立ち去った。
農夫が田を植えて立ち去った。
農夫が田を植えるのを見終わって、芭蕉が立ち去った。
実際には農夫が田を植えたのだが、それを見ていた芭蕉は自分が田植えをすませたような気になって立ち去った。



さらに、深刻な異論もある。『奥の細道』の異本の中には
  
  田一枚植えで立去る柳かな

と読めるものがあるという。「植えて」が「植えで」となると、議論は始めからやり直さなければならなくなる。いまのところこの説は「写本の汚れを濁点と読み違えている」ということで否定されている。しかし、昔の人はめったに濁点を添えなかった。したがって、濁点がなくても「植えで」と読んで差し支えない。

遊行柳を訪れたとき、周辺の田んぼで農夫が田植えに精出していた。それを見るだけの芭蕉は、労働もせず生産活動になんら貢献していない自分の生き方に引け目を感じつつ、

  田一枚植えで立去る柳かな

と詠んだ、というのも悪くない説だ。奥の細道の伝統的読み方からは外れるけれど。

あの鐘の音を聞け
鐘は一つだが
音はどうとでも聞かれる

       ダ・ヴィンチ
                    (2006.6.27)
次回は雲巌寺



7 一線画す白河の関

白河関、勿来関、念珠関を奥州三関とよぶ。大和朝廷の北への拡張のために設置された。しかし、関としての実質的な軍事機能は平安後期以降には失われた。関東と奥羽を分ける歌枕として文芸の世界で存在し続けた。



心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便も富むしも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

『奥の細道』白河の段で芭蕉は、上記のような深い感慨を書き記した。しかし、例によって、肝心の発句を添えていない。代わりに曾良の句を挿入した。松島でもそうだった。この著名な歌枕を題材にして過去読まれた名歌の数々に臆したのだろうか?



たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因)
見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関(季通)
東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関(印性)
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(源頼政)
消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(家隆)
 
 白河の関跡は芭蕉が訪れたころには、正確な場所がはっきりしなくなっていた。19世紀のはじめ白河藩主松平定信が推定した白河市旗宿の小さな丘が、1950年代末から始まった発掘調査で白川の関跡であると確認され、史跡に指定された。



「白河以北一山百文」と東北の地をあざけったのは、明治維新で成り上がった薩長の人々である。東北人の誇りから盛岡出身の原敬は「一山」あるいは「逸山」と号して薩長の増長慢に抗った。また仙台の新聞『河北新報』も「白河以北…」という偏見に題字をもって抗議し、東北人の意地を見せている。

思えば筆者・閑散人が新聞記者の仕事をはじめた1960年代前半の岩手県で、当時の若い記者たちは岩手の北上山中の村の記事を書くときは「日本のチベットといわれる岩手県・北上山中の…」という枕詞を多用した。チベットにも北上山中の村の人々にも申し訳ないことをした。慙愧の念にたえない。よって狂歌はつつしむ。
                            (閑散人 2006.6.27)



8 往時の風流残す須賀川

須賀川は俳句の町である。芭蕉に宿を提供した等躬(『奥の細道』では「等窮」と表記)の屋敷があった須賀川市役所あたりの通りをふらふら歩いていて気がついた。あちこちの民家の門灯に文字が書き込まれており、よく見るとそれが俳句なのである。



須賀川は人口約8万の市だが、市役所敷地内に芭蕉記念館がある。東京・江東区の芭蕉記念館、大垣市の奥の細道結びの地記念館に引けをとらない日本家屋風の立派な施設である。



須賀川市内の20ヵ所余りに俳句ポストが置かれている。投句を審査のうえ、年間最優秀句を芭蕉記念館で展示する。町内会の掲示板にも俳句大会の予定が書き込まれていた。市役所向かいの民家の板塀には市内の芭蕉観光案内の大きなイラストが飾られている。



町全体が芭蕉に入れ込んでいるような気配が伝わってくる。

芭蕉は

  すか川の等窮といふものを尋て、四、五日どどめらる

と描いているが、実際には等躬の屋敷に7泊して、街中や周辺を観光して歩いている。芭蕉と曾良は須賀川で等躬と

  風流の初やおくの田植えうた

を発句とする歌仙を巻いた。

芭蕉はまた等躬の屋敷の近く(等躬の屋敷内という説もある)に住む隠者・可伸を訪ねた。芭蕉は可伸の暮らしぶりに感銘を受けた。芭蕉は可伸の隠者めいた暮らしぶりに、西行や行基のイメージを重ねたのだと解釈されている。



蕪村筆「奥の細道画巻」須賀川 (逸翁美術館本)

此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗

このあと可伸の栗の木は名所になった。等躬が編んだ俳諧選集『伊達衣』には、可伸の迷惑そうな述懐が残されている。

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
  梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗斎 可伸

軒の栗は可伸庵跡に残っている。栗の木そのものはもちろん芭蕉の時代のものではない。



田植えうた風にのり来る風流を栗の木陰で駄弁る遊民
                       (閑散人 2006.6.27)
次回は白河の関




9 苔衣にてしのぶ石

福島市山口の文知摺観音に保存されている苔むした石が「しのぶもぢずり石」だといわれている。



古今集の「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに」(源融)に代表される歌枕である。陸奥国信夫郡。ときに「志乃不」とも表記された。「しのぶもぢずり」は面白い文様のある石の表面に染料となる草木をこすりつけ、その上に布をおき、文様を写し取った染物であるといわれている。信夫郡の名産とされた。

福島では隣接するかつての信夫郡・伊達郡をあわせて「信達」(しんだつ)地方と呼びならわしてきた。信達地方は養蚕の盛んなところであった。幕末の1866年には主要輸出品となった生糸の製造と販売に幕府が介入して利益を上げようとしたことで農民が蜂起する「信達騒動」がおきた。

おそらく石の表面の文様を写し取った草木染の布・しのぶもぢずりは絹製品だったのだろう。

芭蕉はしのぶの里を

あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

と書きのこした。しかし、「早苗とる」のが早乙女だとすると、地の文荒々しさと発句のたおやかさに乖離がありすぎる。迷惑千万と、もぢずり石を突き落とした農民の節くれだった手のイメージのあとに「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」とくるのは、ちょっと異質だ。

芭蕉がここを訪れて後、1749年にはこのあたりを統括する桑折代官が、凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したことから、農民が蜂起して代官所へ押し寄せた。この一揆の後始末で多数の農民が処刑された。

そうした過酷な東北の農民の生活をしのばせるような地の文になっている。したがって、「早苗とる」の原型といわれる「早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺」の方がかえって面白い。この場合、「早苗つかむ」のは、男の農民である。

芭蕉は別のところで(『芭蕉庵小文庫』)で、

忍ぶ郡しのぶの里とかや、文字ずりの名残とて方二間ばかりなる石あり。此石はむかし女のおもひ石になりて、其面に文字ありとかや。山藍摺みだるるゆへに恋によせておほくよめり。いま谷合に埋れて、石の面は下ざまになりたれば、させる風情もみえずはべれども、さすがにむかしおぼえてなつかしければ、
  早苗とる手もとや昔忍ずり

と別の書き方をしている。こちらの方が早苗とる早乙女の手とのつながりが自然である。


子規句碑

文知摺観音には芭蕉の銅像や句碑、子規の「涼しさの昔をかたれしのぶずり」の句碑、奇怪な「甲剛」の石碑などがある。


「甲剛」碑

文知摺観音見学の掘り出し物は、文知摺観音の資料館で販売していた小冊子『信達三十六歌仙』。1847年にこのあたりの人が文知摺観音に奉納したとされる36人の狂歌。その冒頭は

 うちみだれ蛙なくなりもちずりのしのぶのさとの夜はのはる雨
                        愚鈍庵一徳

一徳はこのあたりを統括した桑折代官所の役人だったという。のんびりした狂歌を奉納して約20年後に農民蜂起があったわけだ。

 御政道乱れそめにし文知摺の
       しのぶのさとの夜半の血の雨

                (閑散人)



芭蕉はこのあと、飯坂温泉に向かった。

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
  笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。

蕪村も東北旅行のさい、この佐藤元治の子、次信、忠信兄弟のそれぞれの妻が戦死した夫の甲冑を着て義父あるいは義母を慰めたという伝説の甲冑像を見ていて、それをもとに「奥の細道画巻」の一画面を描いた。


(逸翁美術館本)
                       (2006.6.25)
次回は須賀川   




10 仙台は芭蕉の辻で

JR仙台駅構内の観光案内所で「芭蕉の辻」へ行く道を尋ねた。「駅から歩いてゆける距離です。しかし、松尾芭蕉とは何の関係もありませんよ」という返事をもらって、ちょっと驚いた。金沢には「芭蕉の辻」があった。芭蕉が宿泊した宿屋のあった場所だとされていた。仙台の芭蕉の辻もきっとそのような『奥の細道』ゆかりの場所だとばかり思っていたからだ。



その場所はJR仙台駅から「クリスロード」「マーブルロードおおまち」といった中央商店街のアーケードを西に歩き、日本銀行仙台支店の前を通り過ぎてすぐの四辻だった。

「芭蕉の辻」という石碑があった。石碑にその名の由来が刻み込まれていた。それによる\里海里△燭蠅貿両崋が生い茂っていた△海里△燭蠅枠鵬擲垢如崗貊蠅猟圈廚噺討个譴討い燭それが訛ったかつて「芭蕉」と名乗った虚無僧が住んでいた、などの理由による。



江戸時代にはこのあたりに幕府の制札を立てる場所があったので、正式には「札の辻」と呼ばれていたそうである。

芭蕉は鐙摺、白石、笠島、武隈を通って仙台に入った。しかし、仙台には芭蕉の足跡を思い出させるようなものが意外に少ない。記録によると芭蕉は仙台に3日間滞在して名所見物もしたが、『奥の細道』の仙台の記述は現実感が希薄である。

奥の細道の旅は、日光東照宮大改修を幕府に命じられ、迷惑をこうむっている伊達藩の内情を探る旅であったという説がある。伊達藩は東照宮大改修の費用捻出のため、藩士の賃金3割カットを実施していたという。そういうこともあって、幕府のその筋が曾良に伊達藩の情勢視察を命じたのだという。曾良の経歴にはそうした幕府情報係りのようなにおいが突いて回っている。そうした曾良の存在を目立たせないように芭蕉が同行者にえらばれたのだという。そらは旅行の費用として数十両(現在の数百万円)をあたえられ、そのうちの12両余り(120万円余り)を芭蕉に与えている(村松友次『芭蕉の手紙』大修館書店、1985年; 同『謎の旅人 曽良』大修館書店、2002年)。



芭蕉はそういう曾良の旅に加担することで、奥州旅行を実現させ、その経験にもとづいて自らの芸術観を披瀝した私小説風の『奥の細道』を書いた。『奥の細道』は「紀行」ではなく、宗久の中世紀行『都のつと』にならったフィクションである(村松友次『「奥の細道」の想像力』笠間書院、2001年)。

森鴎外は軍医を生業としながら小説を書いた。金子兜太は日本銀行に勤め俳句をよんだ。ふたりとも時の政府に召かかえられていた。芭蕉が幕府情報班員のお手伝いをしながら、文芸に精進したとしても何の不思議もない。

僧形のあやしき影は二人組芭蕉の辻を今日も徘徊
                   (閑散人 2006.6.17)

次回は信夫文知摺


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